村上都愷と荒和夏越祓

 霊明神社初世・村上都愷は、御所より祓えの御祈願を仰せつかっています。この荒和夏越祓の古文書は、その際に都愷が書き残した、とても貴重な資料です

 荒和祓(あらにごのはらえ)とは夏越祓の別称になりますが、都愷は荒和夏越祓と記しています。この古文書の内容は、どうして夏越の祓えを行うのか、また、どんなことを祈願していたのかなど、一般的には知られていないことも盛り込まれており、とてもユニークな記録となっています

 なお、赤字で書かれているところは、後年、村上の子孫(6世神主と思われる)が「太祖都平大人乃染筆ナリ 外ニ手跡見へ不申ニ付大切ニ残す事」と書き足しています。都平は都愷の誤りです。初世の字がこれしか残っていないので大切に残すようにと子孫に伝えています

 わからないところや間違っていると思われるところもありますが、大意はわかりますので、その内容を見てみいきましょう

 

 まず、禊について、伊弉諾尊さまの身濯祓のときにあらわれた九座一神の住吉の神が禊のはじまりとして説明があります。その後、禊は中臣家の先祖である天種子命が自身を祓うために行っていたとされます

 さらに、臣下を集めて祓えを行ったのは、天智天皇が大津の唐崎にて琵琶湖で禊祓をしたことが初めだと説明されます。これは、天応(文応と読めるが天応の誤りと思われる)元年4月癸卯の桓武天皇が即位されるときの詔また清和天皇が即位される詔にも同じことが書いてあるという(不改常典のことを指していると思われますが詳しくはわからない。天智天皇へのリスペクトでしょうか)

 

 藤原為顕(為家の息子)の唐崎夏祓の歌が紹介されている

 「いかにせん 我からさきの 夏ばらへ その人形の 数ならぬ身を

 ※天智天皇も禊祓を行った唐崎は、琵琶湖の「七瀬の祓所」といわれた一つで、ここで禊ぎ祓いが行なわれていました。今も唐崎神社では「みたらし祭り」としてその伝統が続いています

 

 その後、天武天皇の御代において朱雀門の広場に臣下を集めて祓え行っていることが拾芥抄に書かれていると説明があります

 また、身分の高い人もそうでない人も体に水を取っています。そして、出産の産湯にしています。すなわち、これは禊です

 また、茅の輪をくぐることは素戔嗚尊の智恵であると説明されます。

 

 次に五行思想からの説明があります。五行においては、秋から冬、冬から春、春から夏への季節の移り変わりは相生(相手を生み出す陽の関係)となるが、夏から秋への移り変わりだけが「火剋金」という相克(相手を打ち滅ぼす陰の関係)となってしまう。したがって、夏と秋の間には「土」を挟んで土用とした。四気(わかりやすくいうと四季)に土用はあるが、夏の土用だけが言葉になっているのはこのため。こうして、夏を無事に過ごすためのお祓いとして、雛形に年齢を書いて茅の輪をくぐります

 これが七難八苦の憂いを祓い、富みが留まるようにする神代の教えであると説明があります

 

 さらに、夏越の祓えに関して詠われた、ときどきの歌が紹介されています。出典が合っていないのではないかと思われるものもありますが(たとえば、千載集にはその和歌は確認できません)、国学者でもあった都愷の博識ぶりがうかがえます

 

関白の御記曰(藤原道長 の御堂関白記)

 水無月の 夏越の祓する人は 千とせの命 のぶといふなり

 思ふ事 みな月ねとて 麻乃葉を 切に切りても 祓つるかな

 

千載集に

 年なみの 半を今宵越る輪に すがぬき懸て 七十は経ぬ

 

夫木集定家(「夫木和歌抄」にある藤原定家の歌)

 御祓川 からぬ麻茅の 末をさへ 皆人がたに 風そなびかす

 

源氏物語に

 見し人の 形代ならバ 身に添て 恋しき瀬々の なで物にせん

 

千合歌会

 御祓川 ながれる麻茅の 人形に 思ふ心を 知られぬるかな

 

藤原俊成卿

 御祓する 麻の立枝の 青幣 悪神も なひけとそおもふ

 

源順の歌に

 八百万 神も名越に なびくらん 今日菅脱の 御祓志川れば

 

 

 次に祓う方法について説明しています。

一心に願って二度拝めば、天神地祇三千百三十二神、八百万の神、一神九座の住吉大神と、水の神さま・瀬織津姫、佐須良姫、青龍姫宮が受け取り、祓い清めてくださる。この禊祓を36回行うこと

 

続いて、祈願した内容の説明があります

 今上兼仁天皇(光格天皇のこと)が安泰で宝祚が長く続きますように。仙洞御所中宮御所もご機嫌うるわしく、春宮御所も日々お力が増しますように。ご宝算(年齢)が長くありますように

 征夷大将軍の武運が長久となり治世がうまくいき、長生きされますように

 皇族や貴族の御家の運が伸び、長生きされますように

 五穀が成就し万民も安穏となるように祈ります

 参拝の人たちはそれぞれ雛形に名前を書いて、はからずも暑さを退散させ、罪科を祓います。そして、家業を繁栄させ、寿命を延ばし、子孫が末永く続くように、大麻(棒?祓い串のことと訳してみました)で祓い、祝詞の徳によって、祈願の一つ一つをかなえてくださいますようにと恐れながら申し上げます。

 私は、平安城(平安京のこと)の辰巳稲荷の神にこのことを祈り、この世が安らかく、長く続くように神にお仕いいたします

  村上日向目源朝臣都愷がへりくだって申し上げます

 

 都愷は、文化五年閏六月晦日に夏越祓を行った。その他に御用で松原天使(五条天神社)、清水地主(地主神社)、麩屋町五条朝日宮(朝日神明宮)、七条松明殿神社(松明殿稲荷神社)、その他小宮社で初めの六月の晦日に夏越祓を行った。こうして、六月に閏月があるときは、初めの六月は御用をして、閏六月に夏越祓を行うようにと子孫に申し伝えています

 

 残念ながら、最後にある「恵」と「高貴宮様」は残っている文字だけではわかりません

「高貴宮様」は光格天皇の第七皇子・悦仁親王のことを指していると思われます

 

  いかがでしょうか。とても興味深い内容です。自信のないところもあり、訳し方が間違っているところもあるかと思います。お気づきのところがあれば、是非教えていただければ幸いです

 

■御所から都愷への信頼の高さがわかる

 注目してみたいのは、最後に書かれている「辰巳稲荷の神」です。辰巳稲荷とは、白川筋と新橋通の交わるところにある辰巳大明神のことです。映画やドラマなどでもよくロケ地になり、観光でも人気のスポットです

 辰巳大明神は、もともと京都御所の辰巳、つまり南東の方角を守るために創建されたといわれています。古文書からすると、都愷はこの辰巳稲荷でもご奉仕していたと思われますが、夏越祓でご奉仕した五条天神社、地主神社、朝日神明宮、松明殿稲荷神社は、いずれも御所からみれば辰巳の方角に位置します。御所の辰巳の方角の祓えは、都愷に任せたということだったのかもしれません

 そして、霊明神社の場所もまた御所から辰巳の方角にあります。この霊山で神さまを祀り、神霊たちを鎮めることは、都愷にとって御所の辰巳の方角を守るという意味もあったのかもしれません

■征夷大将軍についても祈願

 御所からの命ですので、光格天皇、皇子、皇族や貴族の祈願はよくわかりますが、征夷大将軍つまり徳川家斉公についても祈願しています。社会が安定し、人々が幸せに暮らせるようになることを大事にしていたことがわかります


 荒和夏越祓の古文書は長い巻物になっているので、画像で4枚に分けて掲載しています(荒和夏越祓①~④)。そして、その翻刻として荒和夏越祓翻刻①~③に分けて掲載しています。クリックすると大きく表示されます。わからないところもありますし、誤読しているところがあるかもしれません。お気づきのことがあれば教えていただければ幸いです

荒和夏越祓①
荒和夏越祓①
荒和夏越祓②
荒和夏越祓②
荒和夏越祓③
荒和夏越祓③
荒和夏越祓④
荒和夏越祓④
荒和夏越祓翻刻①
荒和夏越祓翻刻①
荒和夏越祓翻刻②
荒和夏越祓翻②
荒和夏越祓翻刻③
荒和夏越祓翻刻③