尊王攘夷論者・藤田東湖(1806‐1855)

江戸時代末期(幕末)の水戸藩士、水戸学藤田派の学者。藤田幽谷の息子。東湖神社の御祭神

戸田忠太夫と水戸藩の双璧をなし、徳川斉昭の腹心として水戸の両田と称された。また、水戸の両田に武田耕雲斎を加え、水戸の三田とも称される

 

名は彪(たけき)、字を斌卿(ひんけい)といい、虎之助、武次郎、誠之進の通称を持つ。号の「東湖」は生家が千波湖を東に望むことにちなむという。東湖の他には梅庵という号も用いた

藤田東湖(出典:帝国人名辞典)
藤田東湖(出典:帝国人名辞典)

会沢正志斎と並ぶ水戸学の大家で、本居宣長の国学を取り入れて尊王の絶対化を図ったほか、各人が積極的に天下国家の大事に主体的に関与することを求め、吉田松陰らに代表される尊王攘夷派の思想的な基盤を築いた

※会沢正志斎が文政8年(1825年)に著述した『新論』の中で、従来の尊王論と攘夷論が融合して、初めて尊王攘夷思想が形成されたといわれている。尊皇攘夷は、水戸学から始まっている


 

文化3年(1806年)、水戸城下の藤田家屋敷に生まれる。父は水戸学者・藤田幽谷、母は町与力丹氏の娘・梅。次男であるが、兄の熊太郎は早世したため、嗣子として育つ。父の家塾・青藍舎で儒学などを修め、江戸に出て剣を神道無念流の岡田十松に学んだ。学問は一派に偏せず広く学び、朱子学にはこだわらなかった。

 

文政10年(1827年)に家督を相続し、進物番200石となった後は、水戸学藤田派の後継として才を発揮し、彰考館編集や彰考館総裁代役などを歴任する。また、当時藤田派と対立していた立原派との和解に尽力するなど水戸学の大成者としての地位を確立する。

 

文政12年(1829年)の水戸藩主継嗣問題にあたっては斉昭派に与し、同年の斉昭襲封後は郡奉行、天保元年に江戸通事御用役、御用調役と順調に昇進した。

天保11年(1840年)には側用人として藩政改革にあたるなど、藩主・斉昭の絶大な信用を得るに至った。

 

しかし、弘化元年(1844年)5月に斉昭が隠居謹慎処分を受けると共に失脚し、小石川藩邸(上屋敷)に幽閉され、同年9月には禄を剥奪される。

 

翌弘化2年(1845年)2月に幽閉のまま小梅藩邸(下屋敷)に移る。この幽閉・蟄居中に『弘道館記述義』『常陸帯』『回天詩史』など多くの著作が書かれた。理念や覚悟を述べるとともに、全体をとおして現状に対する悲憤を漂わせており、幕末の志士たちに深い影響を与えることとなった。

 

弘化4年(1847年)には水戸城下竹隈町の蟄居屋敷に移され、嘉永5年(1852年)にようやく処分を解かれた。藩政復帰の機会は早く、翌嘉永6年(1853年)にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが浦賀に来航し、斉昭が海防参与として幕政に参画すると東湖も江戸藩邸に召し出され、江戸幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになる。安政元年(1854年)には側用人に復帰している。

18559月には学校奉行兼職となり600石を給せられ、安政の改革推進役となったが、同年102日に発生した安政の大地震に遭い死去。享年50。当日、東湖は家老の岡田兵部宅へ藩政に関する相談をするために訪問し、中座して自宅に戻った際、地震に遭遇した。地震発生時に東湖は一度は脱出するも、火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻るとその後を追い、落下してきた梁(鴨居)から母親を守るために自らの肩で受け止め、救出に来た兵部らの助けもあって、何とか母親を脱出させるが、自身は母親の無事を確認した後に力尽き、下敷きとなって圧死したといわれる。

 

著書には前述のほか、『回天詩史』『常陸帯』『回天必力』など、力のこもった内容のものが多く、東湖流といわれる独特の書風と水戸人としては珍しく度量の広い人柄と相まって、水戸学普及のうえに大きな役割を果たした。

 

<参考文献>

小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』など


藤田東湖と霊明神社の関わり

藤田東湖自身と直接的に関わりはなかったと思いますが、霊明神社には藤田東湖が揮毫し、彫刻された扁額があります

どうして、この扁額が当社にあるのか、その由来はわかっていませんが、尊王攘夷のリーダーである藤田東湖を尊敬した志士たちの手によるものであることは間違いありません

 

仮説としては、文久2(1862)年12月に平田篤胤門下で神祇伯 白川家の古川躬行や津和野藩の福羽美静らの発起により当社にて斎行された、安政の大獄以降の殉難志士の「報國忠士の霊魂祭」。この招魂祭(慰霊祭)では、烈公(斉昭公)のほか、桜田烈士、坂下烈士などの元水戸藩士の神霊たちも祀られた。この時、集まった水戸藩の関係者あるいは師と仰いだ志士らによって持ち込まれたのではないだろうか

※ちなみに、桂小五郎(木戸孝允)も藤田東湖を尊敬しており、水戸藩士の友人から東湖の揮毫した「忠義塡骨髄」という書をもらい、大事にしていたといいます

 

さて。問題は、この扁額の文字です。何と読むのでしょうか。実は、由来とともに読み方もわかっていません。どなたか読める方はぜひ教えてください

 

 「①②大一付」

 

①は居、罷など ②は順、咲、吹など

藤田東湖が揮毫し彫刻された扁額(霊明神社所蔵)
藤田東湖が揮毫し彫刻された扁額(霊明神社所蔵)

 

■藤田東湖作「正気の歌」

「正気の歌」は、もとは南宋の文天祥という忠臣が作った三百字六十句の五言古詩。江戸時代の朱子学者・漢文学者に大きな影響を与え、浅見絅斎は『靖献遺言』の中で文天祥の生涯を説き、長州の吉田松陰、常陸笠間の加藤桜老、明治期の海軍軍人広瀬武夫らが文天祥の「正気の歌」に做って、「正気の歌」を作っています

 

幕末の志士たちもその歌を愛誦したといい、中でも藤田東湖が作った「正気の歌」は「和文天祥正気歌」と題し幕末の尊皇派の士気を大いに高めたそうです

 

当社で執り行われる幕末殉難志士慰霊祭においても、藤田東湖の「正気の歌」が献吟されています

 

下記の但野正弘さんの解説が詳しいです

http://komonsan.on.arena.ne.jp/htm/tokusyu8-5.htm

 

 

山田静将氏による献吟『正気の歌』(2013年7月の幕末維新殉難志士慰霊祭)
山田静将氏による献吟『正気の歌』(2013年7月の幕末維新殉難志士慰霊祭)

正気歌

『和文天祥正氣歌』

藤田東湖作

天地正大氣 粹然鍾神州

秀爲不二嶽 巍巍聳千秋

注爲大瀛水 洋洋環八洲

發爲萬朶櫻 衆芳難與儔

凝爲百錬鐵 鋭利可割鍪

藎臣皆熊羆 武夫盡好仇

神州孰君臨 萬古仰天皇

皇風洽六合 明德侔大陽

不世無汚隆 正氣時放光

乃參大連議 侃侃排瞿曇

乃助明主斷 燄燄焚伽藍

中郞嘗用之 宗社磐石安

淸丸嘗用之 妖僧肝膽寒

忽揮龍口劍 虜使頭足分

忽起西海颶 怒濤殱胡氛

志賀月明夜 陽爲鳳輦巡

芳野戰酣日 又代帝子屯

或投鎌倉窟 憂憤正愪愪

或伴櫻井驛 遺訓何殷勤

或守伏見城 一身當萬軍

或殉天目山 幽囚不忘君

承平二百歳 斯氣常獲伸

然當其鬱屈 生四十七人

乃知人雖亡 英靈未嘗泯

長在天地間 凛然敍彜倫

孰能扶持之 卓立東海濱

忠誠尊皇室 孝敬事天神

修文兼奮武 誓欲淸胡塵

一朝天歩艱 邦君身先淪

頑鈍不知機 罪戻及孤臣

孤臣困葛藟 君冤向誰陳

孤子遠墳墓 何以報先親

荏苒二周星 獨有斯氣隨

嗟予雖萬死 豈忍與汝離

屈伸付天地 生死又何疑

生當雪君冤 復見張四維

死爲忠義鬼 極天護皇基