水戸藩士で最初に葬祭を行った志士 江幡定彦・林忠五郎

元治元年(1864年)6月16日夜。一橋家の家老並で慶喜の側用人であった平岡円四郎は川村恵十郎とともに家老・渡辺孝綱の宿を訪問。その帰路、京都町奉行所与力長屋(千本組屋敷)外で水戸藩士の林忠五郎と江幡定彦らは平岡円四郎を襲撃。平岡とその従者を殺害するも、川村の反撃にあい、林忠五郎は斬死する。江幡定彦も重傷を負い、その後自害したという。この両名の墓が霊山墓地にある

※川村恵十郎もこのとき重症を負うが、その後も慶喜に仕える。維新後の明治6年(1873年)大蔵省に出仕。同年の台湾出兵の事後処理として大久保利通の渡清に随行。以後、太政官、宮内省、内閣に奉職し、明治26年(1893年)内閣恩給局を退官。明治31年(1898年)まで日光東照宮で禰宜を務めた

 

<水戸藩の尊王攘夷派の志士であった林忠五郎と江幡定彦は、平岡円四郎こそが攘夷を引き延ばしている君側の奸であると考えていたと思われる。平岡円四郎の暗殺は、池田屋事件の直後に起こっており、池田屋事件が平岡円四郎の暗殺を決定的なものとさせたかもしれない>

 

霊明神社との関わり

この林忠五郎と江幡定彦の葬祭を鳥取藩士の河田佐久馬から依頼を受け、霊山墓地での埋葬を霊明神社三世神主・村上都平が執り行う

※鳥取藩士の河田佐久馬とは河田景与のことである。尊王攘夷の志士として活動し、明治維新後は鳥取県権令(初代)、元老院議官、貴族院議員を歴任した。長州藩の志士たちと交流し、三条実美らと連携した。本圀寺事件を首謀。戊辰戦争でも活躍した

 

このときのエピソードを水戸藩士の酒泉彦太郎が「酒泉直滞京日記」に書いています。酒泉彦太郎は、在京の水戸藩士で尊王攘夷派の本圀寺勢のメンバーであり、御守衛兵士や慶喜の警護などを務めた

 

「一夕或人来テ急変ヲ告ク其故ヲ問千本組屋敷ニ変有リ友人江幡定彦林忠五郎斃ルルノ趣ナリ組屋敷ヲ去ル壹町程ノ距離ノ地(田ノ畦畔アル往還也)死体有リ江幡ハ右手ニ短刀ヲ持咽喉ヲ貫キ左ノ肩ヨリ切下ケ胸骨達ス僅表皮ノ存スルアリテ身首處ヲ異セス往還傍ラ田ノナカニ斃刀ハ往還ノ戦闘ノ場所ニアリ林ハ江幡ヨリ後ルル凡二間全身数創ヲ蒙リ首級表皮為ニ支テ離奴迄鮮血地ヲ塗ル其惨情不可云如何共手段ナキニ苦ム云々又一ノ友人探シ来テ其顛末ヲ告ク今夕組屋敷於テ平岡円四郎帰途ヲ待チ途ニ平岡ヲ斬リ平岡同行ノ川村敬一郎及平岡ノ僕某江幡林ヲ追跡シ同志モノ行ク處不知ト云時元治元年六月十六日也茲ニ我々同志等密ニ両人ノ死体ヲ擔イ其夜油小路因州邸ヲ敲キ云々由ヲ漏し川田佐久馬ニ謀ル佐久間輕駕二挺ヲ出ス死体ヲ堀川浸シ鮮血ヲ洗ヒ、密ニ擔テ洛東霊鷲山墓地ニ至リ、神職村上氏ニ事実ヲ漏シ、密葬ノ儀嘱托ス。村上氏ハ気概アル人仍テ同人ニ密托シテ、其根(痕)蹟ヲ覆ワントセリ事、公聞ニ達ス。死体ヲ戻シ宜シク法ニ據リ検視ヲ要スヘキ旨、原仲寧ヨリ通知ニ依テ、再ヒ死体ヲ長持ニ納メ、友人等護送シテ三条邸ヘ帰ル。即日検視ヲ受ク。後公然葬祭之式ヲ行、再ヒ洛東霊山墓地ニ葬ル。墓地葬祭ハ神職村上氏、掌之隊士一同、焼香式畢テ帰邸ス…以下略(江幡外同盟ノ主志ハ平岡暗殺シ東走シテ波山擧ニ應スへキヲ事意外ニ出シト云)」(維新日乗纂輯、第3 安政記事稿本、永田重三筆記、美玉、「酒泉直滞京日記」(酒泉彦太郎)p172-174

 

※ちなみに文中にある原仲寧とは水戸藩の原市之進のことである

 原市之進もまた慶喜の側近になっていくが、平岡同様暗殺の末路をたどる。ここでは詳細を省く

 

二人を手厚く埋葬し、同年7月16日に墓二基を建立する。この葬祭の後、霊明神社は水戸藩士や鳥取藩士の殉難者の弔葬も引き受けていくことになります

 

林忠五郎と江幡定彦の墓(霊山墓地)
林忠五郎と江幡定彦の墓(霊山墓地)
霊明神社霊名記(神霊記)の水戸藩のページには両名の名前が最初にある
霊明神社霊名記(神霊記)の水戸藩のページには両名の名前が最初にある

■江幡定彦は、水戸藩士・江幡矩美の長男。通称を貞七郎、諱を廣光(広光)

文久3年(1863年)、水戸藩主徳川慶篤の上洛に随行、水戸藩・一橋家警衛世話役として京に滞在し、禁門を守衛する任に着く

 

江幡定彦の墓碑側面には下記と彫られている

「諱廣光水府市也奉 公命祇󠄀役 京師

 志氣勇壮一朝憤勵而歿年二十六實元

 治元年六月十六日也葬于洛東鷲尾山」

 

■林忠五郎は水戸藩士・林正清の子。諱を正義

江幡と同様、文久3年(1863年)、水戸藩主徳川慶篤の上洛に随行、水戸藩・一橋家警衛世話役として京に滞在し、禁門を守衛する任に着く

 

林忠五郎の墓碑側面には下記と彫られている

「諱正義水府市也奉 公命祇󠄀役 京師

 志氣勇壮一朝憤勵而歿年二十六實元

 治元年六月十六日也葬于洛東鷲尾山」