松原警察署 大窪長吉 巡査(1871‐1897年)

 大窪長吉は、明治4年4月23日鹿児島県姶良郡帖佐村に生れた

 明治24年から警察庁に奉職し、明治26年6月16日に警視庁巡査となった。翌27年8月15日富山県巡査に出向、さらに29年12月23日に京都府巡査となり松原警察署衛生係専務員として勤務した

 

 明治30年に1月頃、天然痘の罹病者が京都に立ち寄り京都駅付近に投宿したため、その旅行者から市民が感染し、次第に天然痘患者が続出した。警察部では直ちに患者を隔離し、付近の町民1,200名に対し種痘接種を行ったが、患者は市内に拡大し流行の兆しをみせた(京都府統計書によれば、478名の患者が確認され、137名が死亡している)

 

 大窪巡査は、このとき衛生専務員として管内の患者の掌握に非番を返上して尽力し、加えて予防救治に活躍したが、不幸にも自らも天然痘に感染。治療に努めたが効かなく、明治30年3月15日に27歳という若さで職に殉じた

 

 松原警察署は、管内の霊明神社を選んで、葬祭を行い、霊明神社西墓地に大窪巡査の奥都城を建立。現在も大窪巡査の慰霊が続いている

※松原警察署は現在の東山警察署である

 

<参考文献>

「京都府警察史 第二巻、京都府警察本部、昭和50年3月発行」、霊明神社資料など

故巡査大窪長吉君之墓
故巡査大窪長吉君之墓

 

■墓石の裏には下記が刻まれている

 

君名長吉大窪其姓其父曰磯右衛門母東條氏以明治四年四月廿三日生于大隅國姶良郡帖佐村幼學郷校年二十四始奉職于警視廳為巡査区幾辞去又為富山縣巡査留二年又去為京都松原警察署巡査今茲明治三十年二月痘大流行君従豫防消毒之事遂感染以斃于時三月十五日春秋二十七始君之罹患也同僚故𦾔無日不問其床及訃音至聞者皆傷知府憐其死例賜祭祀料又別付與吊慰金若干警察官一同松原署轄内衛生幹事其他有志為醵金以充葬碑之用云夫守其職而死其職者可謂義己署長土持警部按状来請是可以銘々曰

 

従職死職 惟謂之義 吊慰有瞴 以奬後士

明治三十年五月二日 松園忠貫撰 廬山遠山慧書


昭和9年2月19日・20日の両日にわたり松原警察署慰霊祭が執り行われた斎主:6世神主・春一)
昭和9年2月19日・20日の両日にわたり松原警察署慰霊祭が執り行われた(斎主:6世神主・春一)
令和2年9月17日 故大窪長吉大人慰霊祭@霊明神社
令和2年9月17日 故大窪長吉大人慰霊祭@霊明神社
令和2年9月17日 故大窪長吉大人慰霊祭墓前奉告祭
令和2年9月17日 故大窪長吉大人慰霊祭墓前奉告祭