霊明神社 三世 村上都平(1821-1880)

霊明神社三世・村上丹波源都平は二世・美平の二男として、文政4年正月元日に生まれます。子どもの時から両親の死に至るまで一度も親の言葉に違いしことがなかったという至誠至孝の人。二世・美平が神去り、22歳という若さで跡を継ぎます。

 

文久2(1862)年、竹御所曇華院の家士・吉田玄蕃の訪問を受け、長州清末藩の陽明学者・船越清蔵守愚の遺物を納め奥都城を建立し、長州藩主の使者や藩士など50人余の参列のもと招魂祭を斎行します。霊明神社で最初に祀られた志士であり、この祭祀がきっかけになり、都平が殉難志士たちを「皇國の手振り」にて埋葬・祭祀しました。

同年12月14日には、我が国で最初の民間主催の「戌午以環国事に死する者」(安政の大獄以降)の殉難志士慰霊祭(報國忠死霊魂祭)を斎行します。平田篤胤門下生で神祇伯 白川家古川躬行を祭主として、京都滞在中の尊王攘夷の志士や町人たち66名が霊明神社に参列しています。この祭祀は、後の靖国神社創建の源流となりました。

 

元治元年7月に禁門の変が起こると、その幕吏の追捕が霊明神社にも及びます。身の危険を感じた都平は、いったん息子の歳太郎に神社を任せて、「丹一」という酒屋に身を寄せたり、商人にやつし近国や市中に潜伏して過ごすことになります。その後、大政奉還になり、都平は晴れて霊山に帰ってきます。

 

それからほどなく、坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺される事件が起こります。ご遺体が霊明神社に運ばれると、山田藤吉も含めた3人の神葬祭の斎主を都平が務めました。

 

明治元年12月15日、霊明神社で行われた京都府主催の招魂祭は都平が斎主を務めていました。我が国初の官祭招魂社(後の霊山護国神社)の社務(̪祠掌)を兼務し職を辞するまで、招魂社の管理者として神明奉仕に尽力しました。



王政維新150年事業

王政維新150年にあたる平成30(2018)年に、神武創業の維新大業の精神を顕彰し、「霊山の村上」こと都平の多事多難の生涯に思いを馳せ、霊明神社の鳥居の左に都平が詠んだ和歌を刻して後世に永く伝えることとしました。

 

「諸人に 伝えまほしき 我が国の

  まなほの道を ただ一筋に」



幕末の志士の葬送について
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神葬祭・神霊祭
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