船越清蔵(1805年‐1862年)

長門国清末藩出身の陽明学者。諱は守愚(もりなお)。号は豊浦(ほうほ)。別名は小出勝雄

 

豊浦郡岡枝村(現在の下関市菊川町)で清末藩士・船越孟正の子として生まれる

 

藩校育英館で学んだ後、日出藩の帆足万里・広瀬淡窓の元で見識を広げたことで、家督を継がず、国のために生きる道を選ぶ

 

1829年に長崎に行き、蘭学と医学を学ぶ

 

1832年には豊後高田村(現在の大分市鶴崎地区)の毛利空桑の知来館に入門している。この空桑の影響を受け、国境の防備を目的として、蝦夷地の探索を行っている

 

さらに、幕府の情勢を探索するために、1837年には江戸で医者になっている

 

1842~1843年ごろには京都に来ており、その後、塩屋の豪商・邨田柳崖(むらた りゅうがい)の手引きで大津に居を構えるようになり、塾を開いて尊皇攘夷を論じる。この頃から京都に往来する志士たちと交流するとともに、蝦夷を含めて諸国を遊歴している

 

そして、1853年から1854年の幕政に憂慮し、いよいよ行動に出る。このとき、行動を共にしていたことが確認できる人物として、鷹司政通、三条実萬、正親町三条実愛、中山忠能、東坊城聡長、岩倉具視、教助(京都真光院大僧正)、高橋兵部権大輔、牧治部少輔、吉田玄蕃、義天(越後勤王僧、東寺潜居)などがいる。清蔵は自著の「井蛙録」「一夕話」「海防策」「敢言録」「有道危言」で存在感を示し、その書は天皇にまで届いたともいう

 

1857年には同郷の小国剛蔵、入江九一、中谷正亮、久坂玄瑞、生田良佐、中村道太郎、杉山松助、山縣狂介らと書簡を交わし、密に会談をしている。清蔵は、長州と京都をつなぐような立ち位置になり、長州藩の上役であった周布政之助の上洛などにも一役を担うところとなった。

また、この頃、久坂玄瑞は清蔵と懇意にし、清蔵のことを吉田松陰に紹介した。松陰は清蔵と書簡や著書を何度か交わすことで、清蔵が有能な人物であることを悟り、長州藩に清蔵の登用を進言したが、1859年の安政の大獄で松陰が捕まり処刑されたこともあり実現しなかった

 

一方、清蔵も安政の大獄で危険が身に及ぶところとなり、京都にはいられなくなり、1859年正月には密かに長州に帰る。獄中の折り松陰は、清蔵にも直接二通書簡を送っているが(ちなみに、松陰は清蔵のことを先生と呼んでいる)、清蔵から送ることはなかったという。しかし、松陰の門下生たちとは連絡を取り合っていたようで、松陰の門下生たちから絶大な信頼を得ていたことがわかる

 

1860年3月には桜田門外の変が起こる。正確な時期がわからないが、このあたりのときに、清蔵は萩明倫館・長府敬業館・清末育英館で教えるように仰せつかる。これは、国内情勢に緊張が高まる中、清蔵を自由にしないための措置であったともいわれているが、清蔵の存在感は高まり、藩主にも進講するようになる。また、すでに何度か自身の考えを進言していたようである(『三論』)

 

1862年8月、萩城からの帰途、赤郷村絵堂宿にて血を吐いて急死。享年58歳。諸説あり、病死とも毒殺されたともいわれている。毒殺の場合、清蔵が、朝廷に従える公家の身でありながら源頼朝に従い鎌倉幕府に仕えた毛利氏の祖・大江広元を重臣たちの前で公然と批判したことに対して、激昂した藩士の仕業だったといわれている

 

清蔵の遺骸は、岡枝村の小出の祖塋に密葬された(旦那寺は龍泉寺)

1891年4月に従四位が贈位されている

 

(参考資料:『清末藩処士 船越清蔵先生』堀哲三郎著、山口県菊川町教育委員会刊、昭和44年)

 

霊明神社との関わり

 久坂玄瑞は船越清蔵の慰霊と墓地建立に動いています。1862年10月25日の日付で吉田玄蕃にあてた書簡が霊明神社に残っています。清蔵の墓の建立を吉田玄蕃に依頼しており、そのことに関する御礼と自分が行けないことへのお詫びをしたためています。

 

船越清蔵の墓地建立に関する御礼とお詫び(久坂玄瑞から吉田玄蕃へ)
船越清蔵の墓地建立に関する御礼とお詫び(久坂玄瑞から吉田玄蕃へ)

 そして、同年11月18日。霊明神社にて吉田玄蕃が祭主となり長州藩主の使者と50人ほどの藩士が参列し、神道葬祭を行い、清蔵の遺物を墓地に納めました。この神道葬祭は3世神主・村上都平が務めています。墓碑に刻まれた「精勇」の2文字は三条殿卿から贈られ、澤主水正宣嘉卿が揮毫しました。この一連の経緯について、吉田嘿(玄蕃)が明治27年に書付けしており、これが霊明神社に残っています。

 

船越清蔵の神道葬祭一件(吉田玄蕃書付)
船越清蔵の神道葬祭一件(吉田玄蕃書付)
船越清蔵の神道葬祭一件(吉田玄蕃書付。裏書)
船越清蔵の神道葬祭一件(吉田玄蕃書付。裏書)


 そして、霊明神社文書の神霊記の船越清蔵のところにも上記と同じ内容が記載されています。

 また、3世神主・村上都平が著述した『講説稿本』には「高倉二條邉に竹御所内に吉田玄蕃と申す人が有りまして是が亦至って精義勤王の人にて有しが是が右船越先生の石碑を初めて當山に建てまして御霊祭りを致されたのが精義の神霊の祭り初めなり」とあります。霊明神社で最初に公式に神道葬祭を行い、祀られた志士は船越清蔵であろうと考えられます。

 

 船越清蔵という人物が幕末維新という時代、長州にとって、国にとって、尊皇攘夷の思想家・指導者として偉大な人物であったことから、藩が関わる形で公式に神道葬祭が執り行われたということ。また、それが霊明神社で執り行われたということが非常に重要です。この船越清蔵の神道葬祭と奥都城(神道墓地)の建立が契機となり、長州藩をはじめとする多くの志士の神霊をお祀りしていくことで、この霊山が、霊明神社が志士たちの聖地となっていきます。

神霊記に記載されている船越清蔵
神霊記に記載されている船越清蔵

船越清蔵の奥都城(霊山墓地)
船越清蔵の奥都城(霊山墓地)
一番左が船越清蔵の奥城城(隠玖兎岐集)
一番左が船越清蔵の奥城城(隠玖兎岐集)

霊明神社所蔵の船越清蔵の作品

七言絶句

夷狄跳梁奸吏横 人間歳月復崢嶸

(夷狄跳梁し奸吏横す 人間歳月また崢嶸)

 

胸中光燄無由吐 誰為君王策太平

(胸中の光燄由無く吐く 誰か君王の為太平を策せん)

 

庚申歳暮豐浦

(安政7年・万延元年年末 船越清蔵)

 

【意味】

外国の悪人がのさばり、よこしまな役人が横行している

人が年月を重ねてしまうと 胸中の激情を訴えるすべがない

誰か天皇のために太平の策をなせ

大内山 とよさか登る あさ日かけ 

くまなく照らせ 神のまにまに