霊明神社西墓地

 西墓地は、霊明神社の西側にあり、神社から通称・龍馬坂を下っていくと、左側にあります(東山区桝屋町356番地。二年坂より東の山側。レストランひらまつ高台寺の東隣)。 当時は「維新の道」はなく、この道が正法寺、霊明神社への参道でした。

 

 西墓地は、安政3(1856)年10月、3世神主・都平が神道墓地を拡張させるために、正法寺永寿院より斜面荒地の約900坪を買い受けて開拓しました。

 

 明治2年9月には、吉村虎太郎、坂本龍馬、中岡慎太郎など27柱を祭神とする土州高知藩招魂社が建立されており、土佐藩招魂祭もこの場所で斎行されました。また、明治4年6月、天誅組の大和義挙に殉じた志士の首級が改葬された「天誅組墓所」もこの場所にありました(右下の明治40年頃の様子をご参照ください)。しかし、明治11年10月霊山奥都城と上記の墓地など約1800坪が上知(国有地)となり、その後、昭和40年代に土佐招魂社や天誅組墓所一帯は霊山護国神社の境内に移設埋葬されました。

 

 西墓地には、七卿の壬生家 足利三代将軍梟首事件首謀者の師岡節斎と長尾郁三郎の兄一族、喜多川眞彦など国学者門人、尊攘志士関係子孫の墓があります。

 

・平成22年10月 幕末志士葬送の道 石碑建立

・平成28年9月 天誅組総裁松本奎堂謙三郎顕彰碑を建立

・平成30年8月    王政維新150年事業 西墓地改修

・令和2年11月 創建200年整備「靈明の手水」

 

京都霊山殉難志士墳墓全図(京都養正社、明治40年発行)
京都霊山殉難志士墳墓全図(京都養正社、明治40年発行)
霊明神社西墓地の明治40年頃の様子
霊明神社西墓地の明治40年頃の様子。昭和40年代に京都霊山護国神社の境内に移設

 西墓地では、新しく家墓(〇〇家之墓など)の他、合祀墓、一人墓・二人墓(宇都志の庭)をおつくりすることができます。詳しくは「お墓をお求めのみなさまへ」をご覧ください。

家墓・個人墓

代々のお墓、個人の一人墓など
代々のお墓、個人の一人墓など

一人墓・二人墓

一人用、二人用のシンプルな奥都城「宇都志の庭」
一人用、二人用のシンプルな奥都城「宇都志の庭」

合祀墓

家墓や自分のお墓をつくらないという方々が一緒に入る合同の奥都城
家墓や自分のお墓をつくらないという方々が一緒に入る合同の奥都城