■創 建
光格天皇の御代、文化6(1809)年8月、主殿寮史生従六位ノ上日向目源朝臣村上都愷(くにやす)が、徳川幕府の寺請制度の政策下にありながら、神道葬祭を断行し、神道信仰素志貫徹を図るべく、正法寺(時宗国阿派の本山)の塔頭清林庵所有山林の1,000坪を買い受けて、神葬祭場を開拓し、同年11月、この地に霊明神社を創建しました。
幕末には、長州藩士をはじめとする志士の神葬祭を執り行い、霊山に彼らを埋葬し、奥津城(お墓)をつくったことで、霊明神社は志士たちの聖地となりました。
詳しくは「幕末の志士の葬送について」をご覧ください。
■境内地
創建当初は「東は方丈地境限り、西は往生院藪地限り、南は大道限り、北は高台寺限り」の区域を擁しており、嘉永年間に900坪を増地し、2,000坪近い境内を有していました。
明治10年、1880余坪を公収(上知)され、14坪2合9勺を所有するのみとなり、現在は創建当時の「上墓地」の他に、京都東山温泉ホテルりょうぜんの南に「南墓地」と二年坂に通じる国阿坂を降りた「西墓地」の3カ所に霊明神社の神道墓地があります。
■洛東靈明舎由来(隠玖兔岐集より)
元来此地は神道の墓所なり 霊明舎といふ其むかし源朝臣都愷という人 神道に志ふかく有りけるに 皇国ぶりの長く絶て神去りし人の霊祭りをもただ佛わざのみになりしを深くなげかれて いささか神みちの葬りわざの手振りをのこさむやと 千々心を尽くされしに 幸ひ霊の山に因みを得て 国みちの葬祭りを行はれしに 今難有も我皇国ぶりのひろくなりたるはいともありがたき事にあらずや
往昔都愷の霊祭有し時
しげくさの しげれるみちの みちわけは
きみがとがまの ひかりなりけり
東宮侍者 藤原重武