令和2年8月2日に故村上歳太郎大人100年祭を斎行ご参列くださいました皆さま、よくお参りくださいました

この100年祭の記念事業の一環として、歳太郎大人を紹介するページを作成いたしました。ご高覧いただければ幸いです

霊明神社 四世 村上歳太郎(丹波源都順)(1842-1920)

三世・都平の長男。六尺(約180cm)豊かなる偉丈夫にして古武士の風あり。神を祀ること厳格にして記憶力に優れ、博学多識にして、話術巧みなりし故、墓参者はその話を聞くのを大いなる楽しみとした程なり。風俗をはじめ世に珍しきこと、また皇学はもとより漢籍、医術、有職故実にもわたりしなり。漢籍に関しては四書の「大学」の素読を孫・春一に教えた。医術に関しては医師シーボルトの門弟に学びしものならん。シーボルトの医学についてもしばしば話題とせり。ハブ草等の薬草を自ら栽培し、怪我人や病人の治療にもあたりし程なり。反面、酒豪にして、数々のエピソードこれあり

(歳太郎大人50年祭における、孫の六世・村上春一による述懐より)



歳太郎は父の三世・都平の薫陶を受け、弔いの神主としての道を歩み始めますが、激動の幕末から明治。その時代の荒波に翻弄されることになります


幕吏の襲撃と一家離散

三世・都平が久坂玄瑞と交流し、勤王の志士の弔祭を始めてから、特に文久2(1862)年以降、霊明神社には長州藩を中心に勤王の志士の往来が続き、幕府方から睨まれ、たびたび幕吏の見廻り、会津藩士や浪士などの襲撃を受けることになった。歳太郎の多難の歴史の始まりである

 

元治元(1864)年の禁門の変には、霊明神社にも危険が及び、ついに村上一家は家族離散するところとなった。この一家離散の間、歳太郎だけは霊山・霊明神社に残って留守を預かりましたが、家族はばらばらに各地を流浪し、数々の辛酸をなめたという

 

慶応3(1867)年10月。大政奉還になり、晴れて村上一家は霊明神社に帰還する

 

■坂本龍馬・中岡慎太郎・藤吉の神葬祭で祭官を務める

慶応3(1867)年11月15日に土佐藩脱藩の坂本龍馬、中岡慎太郎、藤吉が近江屋で襲撃に遭い、暗殺されると、17日にその遺体が海援隊らにより霊明神社に運ばれてくる(その道は、幕末志士葬送の道。通称「龍馬坂」と呼ばれている)

 

この坂本龍馬らの神葬について記述されている『鳥取藩慶応丁卯筆記』には「・・・村上歳太郎請持之山地ニ埋葬ニ相成・・・」と歳太郎の名前が記されている。厳密には都平であるが、禁門の変以来、歳太郎が霊山に残っていたため、そのように記述されたのではないだろうかと思われる

霊明神社神道墓地への埋葬については『海援隊日記』などからもわかる

 

坂本龍馬らの神葬祭は、村上都平と歳太郎の親子によって執り行われ、霊明神社の墓地に実葬されました。霊明神社で神葬祭、慰霊祭(招魂祭)などを行い、霊明神社に合祀されている神霊が記録されている神霊記(霊名記)に、その名前が記されている

『鳥取藩慶応丁卯筆記』に見る龍馬らの神葬について
『鳥取藩慶応丁卯筆記』に見る龍馬らの神葬について
霊明神社神霊記(霊名記)より
霊明神社神霊記(霊名記)より
幕末志士葬送の道(通称:龍馬坂)
幕末志士葬送の道(通称:龍馬坂)
坂本龍馬慰霊祭提灯行列(京都龍馬会主催)
坂本龍馬慰霊祭提灯行列(京都龍馬会主催)

■鳥羽伏見戦防長殉難者の神葬祭

戊辰戦争の緒戦といわれる「鳥羽・伏見の戦い」で命を落とした長州藩および支藩(防長藩)の戦死・病死者の墓が東福寺の南岳墓所にある

慶応4(1868)年正月、鳥羽・伏見の戦いのおり、長州藩が鳥羽街道を守るために東福寺の山上に本陣を置いたことから、この地に遺体を葬り墓地とした。石川厚狭介を含む長州藩士ら24名が埋葬され、それぞれ木の墓標が建てられました。このとき、仏葬ではなく神葬で葬られ、この神葬祭を都平とともに歳太郎が執り行っている(霊明神社神霊記にその記録があり、右写真はその表書きで、次のページから神葬した人物の名前が記載されている)

その後、毛利家と縁の深かった東福寺退耕庵の菩提所となり、1900(明治33)年の33回忌に石の墓標に改葬され、この時に14名の戦傷病死者などが追祀されている(大村益次郎襲撃に遭遇して闘死した静間彦太郎の墓なども含まれている)

霊明神社神霊記(霊名記)より
霊明神社神霊記(霊名記)より

■国、諸藩の招魂社の建立。私祭から官祭へ

慶応4(1868)年1月16日、諸藩の招魂祭としては初となる長州藩の招魂祭を、都平と弟の周造と一緒に祭官を務める。この招魂祭には、毛利徳山公、御本家使者、藩士が参列している

 

5月に太政官布告によって国事殉難者を祀る霊山官祭招魂社が建立される。都平が神職に列せられ、1,900坪が「請持地ヲ神道葬祭地トシ地税ヲ免除ス」となる

 

7月18日、霊明神社の兼帯社として長州山口藩神霊合社が高台寺領境内14坪6合に建立され、霊明神社からの遷座式が斎行される。翌19日、長州藩招魂祭が斎行され、毛利徳山公、藩士6,400余人が参集した。これが各藩に先んじて建立された招魂社であり、私祭として招魂社で行われた初の慰霊祭となった。斎主は都平であり、歳太郎は弟の周造と共に祭官を勤めました

さらに、12月15日、京都府の官祭としての招魂祭は「変動前後ノ為ニ亡命致シ候有志之輩朝廷ヨリ招魂祭被仰付事則於霊明社ニ都平畏テ勤之ヲ」と、招魂祭の霊明神社が内外に喧伝される名誉ある祭儀となった

以後、長州藩と同じように霊明神社の兼帯社として、明治2(1869)年3月21日に諸神霊合社(京都府)、9月25日に州高知藩神霊合社、明治3(1870)年3月19日に筑前福岡藩神霊合社、6月12日に因州鳥取藩神霊合社、9月11日に肥後熊本藩神霊合社の招魂社が建立される

 

以上、歳太郎は父・都平のもと、初世・都愷が切り開いた霊山墓地が後に官有地化されていくきっかけとなる招魂社の設立と官祭化を目の当たりにすることになる

 

※すでに神職として務めているところではあったが、慶応4(1868)年7月に京都府に正式に神職として勤められるように願い出て、それが許され、このときに村上歳太郎から村上丹波源都順と改名をしている。ただし、この名前を使ったのはわずかな期間であり、元の歳太郎の名前で通している

■経済的に困窮。佐渡島で公務員になる

慶応4年(1868)年閏4月、霊明神社とも関わりのあった旧津和野藩士・福羽美静は神祇事務局の権判事として「神職の者、家内に至るまで、以後神葬に相改可申事」と発令。神職の家のものは、すべて神葬が許されることにはなったものの、一般の人々が広く神葬を選ぶまでには至らなかった。維新直後の霊明神社社中(檀家)はわずか19家しかない

また、当時、村上家には当主の3世・都平と妻・つね、長男・歳太郎と妻・美祢子、次男・周造、三男・阿三郎、家来の庄次、下男の政吉と敬助、下女のふみの10人が暮らしており、経済的に非常に厳しくなっていた

 

そのため、歳太郎は、明治2(1869)年2月に東京に出て、霊明神社と交流のあった旧鳥取藩士・新貞老(五郎)の誘いを受け、佐渡縣に奉職することになる

※新貞老は、文久3(1863)年、京都本圀寺で二十士事件にかかわり投獄された尊攘派の志士。投獄されてから1年後に木戸孝允に助けられる。霊明神社と縁の深くつながりのあった人物で、後年、佐渡懸の知事となる。晩年、宇倍神社(因幡一ノ宮)の宮司に赴任し、その時、霊明神社に立寄り、和歌を奉じている

 

※歳太郎は東京から奥州道中佐渡までの「道中日記」(越後水原ヨリ新潟ヨリ乗船佐渡国迄)を残している

 

佐渡に渡った歳太郎は、佐渡懸の外務掛分課兼勤、准史生を拝命。しかし、佐渡金山のイギリス人技師と意見の相違などがあり、明治5(1872)年2月に免職となる。ここでいうイギリス人技師とは、エラスムス・ガワーあるいはジェームス・スコット、あるいは両人のことと思われる。どのような意見の相違かわかりませんが、歳太郎に攘夷の思想の影響があったのでしょうか

※ちなみに、ガワーは火薬を使用した採掘方法の指導や製鉱所の建設のほか、鉱石を運ぶためのトロッコ用の線路を敷き、スコットは機械を設置してその運転を指導したそうです

佐渡懸辞令書
佐渡懸辞令書
佐渡懸准史生の辞令書
佐渡懸准史生の辞令書

■東京で出稼ぎ。妻・美弥子と奇跡的に再会

佐渡からいったん霊山に帰ってきた歳太郎は、明治5(1872)年10月、東京豊島郡渋谷村百姓植村喜久次郎方へ再び1年間出稼ぎに出る(弟の周造もまた大阪難波多福ゑつ方へ1年間出稼ぎに出ている)。このとき、東京で妻・美祢子と偶然の再会を果たす

また、明治7(1874)年11月、東京の下谷の新貞五郎方(新貞老のこと)へ、明治9(1876)年4月にも東京日本橋西川岸の鳥取懸士族新武男(新貞老のことだろうか不明)方へ商用出稼ぎのため滞在

 

そして、明治12(1879)年11月まで諸学修行のため寄留送籍の届けを出している。詳細はわからないが、この頃東京に住んでおり、シーボルトの門弟に学んだというのも、京都に戻ってくるまでのこの時期ではないかと思われる

ちなみに、歳太郎はハブ草など自ら栽培し、それらを使って怪我人の治療をしたという。このことからシーボルトの門弟とは、植物学者にして医学者、日本最初の理学博士・伊藤圭介ではないかとする説がある

 

※妻・美祢子は、幕末より公家の堤家に女中奉公に上がっており、明治元(1868)年に堤家(後に子爵を授かる)と共に東京へ遷って、奉公を続けていた。美祢子は霊山に住んでいた羽富源六の娘で、歳太郎が東京に出る時に息子・市次郎(当時、3歳)を妻の実家・羽富家に託している

歳太郎と美祢子(明治9年8月浅草奥山の江崎写真館にて)
歳太郎と美祢子(明治9年8月浅草奥山の江崎写真館にて)

※この写真を撮影したと思われる江崎礼二は、下岡蓮杖、上野彦馬に師事し、日本に本格的な商業写真を持ち込んだ人物。早取り写真は一世を風靡して、浅草奥山の中でもトップクラスの写真館となり、日本を代表する写真家となる。後には東京市会議員にもなり、高層建築物の先駆けである浅草凌雲閣を発案している。江崎写真館は残念ながら平成16年に閉館


■歳太郎、霊山に帰るも上知の沙汰あり。4世神主として厳しい船出

 明治10(1877)年4月23日、弟の阿三郎孝正が急病のため21歳で神去る。同年6月、歳太郎に「神道第二部教導職所属之旨承諾候尚教義勉励報効有之度候事」との達しが届く。父・都平を祭官として支えていた阿三郎が亡くなったこともあり、3歳になる娘の賀代を泣く泣く養女に出し東京に残して、美祢子と共に霊山に帰ることになる

 

同年11月14日に上知令が発令される。「霊明神社現境内ヲ除キ外一般上地被仰付候二付図面下ケ被渡ル」とあり、985坪の除地となって、境内地はわずか14坪余を残して約1900坪の上知となった。さらに墓地の全面が官有地となって、もともとの社中(檀家)も自由な出入りが制限されることになった。このこともあり、ついに経済的に苦しくなり、歳太郎は村上家から除籍され、妻の実家・羽富源六家に分家されることになった

(弟の周造とその妻・きみは、親族の松本家に養子へ)

 

そして、明治11(1878)年9月16日、祠掌・村上都平、所労に依って職を辞すことになり、歳太郎に「山城國宇治郡第壱区清閑寺村靈明神社祠掌申付候事 京都府」と達しがあり正式に4世神主となる

同年10月「招魂社々務申付候事」と社務仕事も行うようになる(神職としてではないと思われる)

 

明治12(1879)年5月12日に父・都平が59歳で神去る。これを受け、9月に家督を相続する

同年10月10日、神道事務局より教導職試補になる

 

同年10月31日に歳太郎は養正社に対して、都平と同様に招魂社の神職勤務の願書を提出する。そもそも志士の奥都城がなぜ霊山にあるのか、その由来を述べて、招魂祭を村上家が執行してきたこと、父・都平の死後も銅碑表忠碑の守護を自分に引き継がせて欲しい旨を述べている。この主張が認められ、都平と同様に霊山招魂社務兼勤の辞令を正式に受け、神職として務めるところになる

※京都養正社は、明治9年、内閣顧問木戸孝允が槇村正直(後の京都府知事)とともに設立した幕末維新の顕彰団体

 

明治14(1881)年12月、十津川との掛合状で十津川郷士の墓所の掃除費を取り決めていたが、未納分があり支払うように催促の手紙を出している

※十津川郷士の神霊も霊明神社に合祀されている

 

明治16(1883)年8月、橋本久右衛門所有の林地180坪を神道墓地変換の「地目変換志願書」を霊明神社信徒中より出している。正法寺旧方廣庵墓地の1反2畝10歩を霊明神社南神葬墓地として購入・開拓する。これらが現在の南墓地である。これは上知によって霊山墓地への出入りや埋葬や新墓地開拓建立の一切が制限を受けているために、霊明神社の経営が将来にわたって危ぶまれることを考えて、妻・美祢子の実家の縁によって正法寺所有の南の地所を新墓地にするという英断であった。

※歳太郎の息子・5世神主の市次郎は地続きの余地を大正6年になって拡張して総34坪とした

 

神道第二部教導職所属之旨承諾候尚教義勉励報効有之度候事
神道第二部教導職所属之旨承諾候尚教義勉励報効有之度候事
山城國宇治郡第壱区清閑寺村靈明神社祠掌申付候事
山城國宇治郡第壱区清閑寺村靈明神社祠掌申付候事
神道事務局より教導職試補を申しつけられる
神道事務局より教導職試補を申しつけられる
招魂社の神職勤務の願書の写し
招魂社の神職勤務の願書の写し
招魂社の神職勤務の願書の写し(翻刻版)
招魂社の神職勤務の願書の写し(翻刻版)
現在の霊明神社南墓地
現在の霊明神社南墓地

<余談>金策の苦労。。。

・明治10(1877)年8月にはすでに金策借金をしている。「熾仁親王神勅一幅 雲濱老人唐詩一幅」を五圓で借用している。重要な価値ある宝物まで手放している

・明治12(1879)年10月、西墓地桝屋町の長谷川与七方へ「金三円五十銭也 右者我等所有之枇杷五本柿一本来ル明治十六年ヨリ二十二年迄木実御勝手御取計可被成候証書如件 村上歳太郎」と、果実と交換にお金を工面している

 

■家督を譲るも神職として神明奉仕に励む

明治17(1884)年2月9日、歳太郎は42歳にして隠居し、家督を長男・市次郎に相続させる。

 

同年11月に補権訓導、明治18(1885)年5月に補訓導、また「假學證 平民 村上歳太郎四十二年 五ヶ月 三等假試験合格ヲ證ス 京都府皇典講究分所」、6月「愛宕郡副部長擔任可有之候や 京都府神道事務分局」、10月には補権少講義に

三等假試験合格
三等假試験合格
愛宕郡副部長
愛宕郡副部長

 

明治19(1886)年4月に霊山招魂社社務を免ぜられる。約7年の勤めであった

 

同年10月「来十四日霊山東福寺泉涌寺大雲院大黒寺招魂祭執行ヲ命ス 但語合人ノ義ハ人名届出べシ 京都府」と各招魂祭の斎主の辞令を受ける

 

同年12月に補少講義になる

 

明治20(1887)年、霊明神社と縁の深い子爵・品川弥二郎が師・吉田松陰の想いを継承し京都市内に尊攘堂を創建。尊攘党では、吉田松陰の命日に勤王の志士の慰霊祭が行われました。その斎主は歳太郎が務めました以降、終戦前の昭和19年まで尊攘堂主催の慰霊祭斎主を霊明神社の村上家(6世神主・春一まで)が務めてきました。数編の祝詞が神社に残っている

 

同年、「禁門の変二十五年祭」の斎主を勤める。招魂社の社務を解かれた後の斎主であり、品川弥二郎らの意思が強く働いたと思われる

 

明治21(1888)年1月に「霊明神社記録」を執筆。冒頭の記述は「・・・事煩雑或いは公私混雑瞭然ならざる処あるを以て」とある。子孫や後世に事実を記録したものとしてとても重要な文書になっている

 

同年10月「来十四日霊山東福寺泉涌寺大雲院招魂祭執行ヲ命ス 但語合人之義ハ人名ヲ届出べシ 京都府」

 

同年11月、英国公使パークスを要撃した林田栄太郎源貞堅の佩刀を従弟で前大審院検事の喜多千頴が献納。霊明神社の宝刀となるが、歳太郎は酔うと、この宝刀を振りかざしたという

 

明治22(1889)1月、補権中講義に。6月には殉難従軍墳墓副監守の辞令を受ける

同年10月「来十四日靈山東福寺泉涌寺大雲院招魂祭執行ヲ命ス 但語合人ノ義ハ人名ヲ届出べシ」

同年12月「靈山招魂社社務兼勤ヲ命ス 但年手当五圓支給 京都府」 

 

明治23(1890)年1月、補中講義

同年4月「殉難従軍者墳墓副監守ヲ命ズ 京都府」 「殉難従軍者墳墓副監守村上歳太郎 為手当一ヶ年金拾圓ヲ給ス」   

 

明治24(1891)年2月、補権大講義

同年4月「殉難従軍戦死者墳墓副監守ヲ免ズ 京都府」 

同年、養女に出した娘・賀代と再会して身元の保証を行う

 

明治26(1893)年、明治12年より霊山墓地への立入を禁じられていたが、京都府から霊山墓地の管理を任せられる。

同年9月「元治元年甲子七月十九日 戦死者遺骨改葬所永代掃除料 金十圓 元治元甲子年殉難士三十年祭 首唱 松本鼎、阿武素行」と支払いを求めている

 

明治31(1898)年4月、補大講義

 

明治34(1901)年3月、江馬天江(板倉槐堂の弟)の葬儀の斎主を務める。当時の新聞記事には歳太郎は霊山招魂社士祠官と紹介されている。江馬家宅での出棺祭。祭場は高台寺玉雲院。高台寺山上墓地への埋葬であった

 

明治36(1903)年、京都養正社の頼龍三理事長より設立以来の祭儀の神明奉仕や御祭神の名簿の奉安、長年の援助などについて感謝状を受ける 

※頼龍三は頼山陽の孫。ちなみに、霊明神社には頼山陽の手紙も残っている

 

明治40(1907)年5月12日に殉難志士五十年祭が京都養正社の主催で齋行される。このとき、歳太郎も祭員を務めている

同年5月15日に妻・美祢子が65歳で神去る

 

大正9(1920)年8月2日、歳太郎は78歳にして神去る

教導職の階級は最終的には大講義であった

 

※上記は、資料の確認できたもののうち一部を掲載。確認できていない資料や、紛失している資料などもあり、この限りではないことを申し添える

 

霊山東福寺泉涌寺大雲院大黒寺招魂祭執行を命じられる※1
霊山東福寺泉涌寺大雲院大黒寺招魂祭執行を命じられる※1
招魂祭の人名の届け出※2
招魂祭の人名の届け出※2

各所の招魂祭を霊明神社の神主として受けており、祭員の人選も歳太郎が行っていた。その時々で人選も変わっているが、歳太郎と付き合いのあった神社や神主がわかり、貴重な資料である

ただし、※1と2は年代が違い対応はしていない。資料が確認できていないが、※2からすると、歳太郎は明治12年、後を継いだ時から招魂祭を執行している

尊攘党招魂祭祭文の一部(祝詞の草稿)
尊攘党招魂祭祭文の一部(祝詞の草稿)

品川弥二郎が祭主で、歳太郎が斎主。霊明神社との関りを示す貴重な資料である

殉難従軍者墳墓副監守を命じられる
殉難従軍者墳墓副監守を命じられる
京都養正社(理事長 頼龍三)の感謝状
京都養正社(理事長 頼龍三)の感謝状

本社建栄記(霊明神社記録)
本社建栄記(霊明神社記録)

 

※歳太郎は、本社や内殿の建設にも尽力していることがわかる。資料の整理が及んでいないので、詳細は別にまとめることとしたい

霊明社内殿造営有志簿
霊明社内殿造営有志簿
霊明神社四世神主・村上歳太郎と妻・美祢子の奥都城
霊明神社四世神主・村上歳太郎と妻・美祢子の奥都城


歳太郎の孫、人間国宝・杵屋佐登代(1911-1997)

東京で養女に出された歳太郎の娘・賀代には、高橋梅子という娘がいる。高橋梅子は人間国宝となった女流長唄唄方・杵屋佐登代である

 

明治44(1911)年1月、東京旧両国の東日本橋に生まれる。数え6歳より4世・杵屋佐吉の手ほどきを受けた

 

大正12(1923)年、帝国劇場で6代目菊五郎主催の「踏影会」に4世杵屋佐吉作曲の舞踏劇「たそがれの賦」に唄方として初舞台を踏む

また、同年、当時のフランス大使(詩人でもあった)ポール・クローデル氏の作詩、4世杵屋佐吉作曲の「女と影」に日本音楽として初めてオーケストラ形式による演奏に出演

 

大正14(1925)年から杵屋佐登代を襲名

 

昭和8(1933)年長唄玲韻会を結成し、指導にあたる

 

戦時中、疎開することはなく、自宅に日本橋で最大といわれる規模の防空壕をつくった。3月10日の東京大空襲では近隣の世帯家族を迎え入れ、一帯が焼け野原になっても火災に遭わず、家財道具が無事だったことは語り草となったそうだ

 

昭和43(1968)年5月、椿山荘「ときわ会」で皇后以下皇族ご臨席のもと自作品「扇の寿」を親友の水谷八重子の舞で御前演奏

 

昭和45(1970)年、NHK芸術祭参加作品「榎」の演奏で優秀賞

 

昭和48(1973)年11月に紫綬褒章

 

昭和51(1975)年、「惜しむ春」「五月雨」のレコードに対しビクターより奨励賞。翌年もレコード「杵屋佐登代選集」に対してビクターより奨励賞

 

昭和58(1983)年4月に勲四等寶冠章を受章し、昭和62(1987)年4月に重要無形文化財個人所有者(いわゆる人間国宝)に認定される。平成4(1992)年に第43回日本放送文化賞を受賞。平成6(1994)年8月に東京都中央区での初の名誉区民に選ばれた

 

作曲に長唄「竜田姫」「蓮月尼」「信田妻」、アルバムに「四世杵屋佐吉名曲選集」などがある

 

テレビ・ラジオ、舞台にも数多く出演し、多くのレコードを残した。古典・新作共に定評。演奏は明るく明瞭で、常に大輪の花の雰囲気があったと

 

平成9(1997)年10月18日に神去る

 

高橋梅子は、母・賀代が霊明神社の娘として生まれたことを誇りに思っていた。霊明神社にも幾度となく訪れ、村上家と交流を図りました(写真や手紙などもたくさん残っている)。霊明神社への支援も惜しまなかった

 

遺言により、高橋梅子の奥都城は霊明神社南墓地の村上家の墓所にある。祖父・歳太郎の奥都城の前にあり、懇意にした七世神主・壽延夫婦の奥都城の隣に並んでいる

杵屋佐登代(高橋梅子)
杵屋佐登代(高橋梅子)
杵屋佐登代奉納の賽銭箱
杵屋佐登代奉納の賽銭箱
杵屋佐登代奉納の楽太鼓
杵屋佐登代奉納の楽太鼓
勲四等寶冠章
勲四等寶冠章
高橋梅子(杵屋佐登代)奥都城
高橋梅子(杵屋佐登代)奥都城