霊明神社 初世 村上都愷(1753‐1819)

至誠の人。国学に志深く、門人を集めては神道を講じ、諸処国々へも出向きました。

士分町人の別なく「我が国は神国なれば誰人も神ながらの道によるべきこと」と説き、「神ながらの道」の徹底のために「神道葬祭」を起こす覚悟を決めます。

京都は東山の霊山に神道葬祭場を創設し、神道葬祭を断行します。この行動は、幕末とはいえ仏教全般の世において、儒仏両教に依存する幕府の政策に対する重大な反逆行為であり、寺院からの妨害や京都所司代の嫌疑、迫害を受けることになりました。表面上は時宗の葬式を装い、神道式葬祭を行うなどの苦労がありました。

 

のちに、二世・美平の文政3年に(1820年)に神祇管領吉田家の「神葬式許状」を得て、正式に神道葬祭が認められるところとなります。

 

後年、勤王の志士たちは、初世・都愷の「死して護国の神となる」という思想に影響されて、「霊山の村上にて皇国の手振りにて葬られることを如何に楽しとせしことぞ」と霊明神社に葬られ、神霊として祀られることを無上の名誉としました。

 

 

東宮侍者小監物藤原重武が都愷の功績を偲んで和歌を詠んでいます。

 

「しげ草の しげれる道の 路わけは

 君がとがまの 光なりけり」

主殿寮史生 従六位ノ上 村上日向目源朝臣都愷大人の肖像画
主殿寮史生 従六位ノ上 村上日向目源朝臣都愷大人の肖像画
初世・村上都愷の奥都城
初世・村上都愷の奥都城


略伝

●宝暦3(1753)年 江州彦根藩家中・小倉(後に伊藤)貫仲の子として産まれ、久弥と名づけられた。故あって、出生後ただちに美濃金森藩家中・村上文右衛門方へしばらく預けられた。

 

●宝暦7(1757)年 父親貫仲得心の上、文右衛門が親となり、京都建仁寺町博多町の住人、長谷川半兵衛(その妻・もと)の養子になる。

 

●詳細は不明だが、名を掃部と改めて帯刀もしており、寛政5(1793)年には土御門殿に出仕していた。後年、神道を講じ、朝廷へも仕え、四御所の御用をも仰せつけられ、門人も多かった。

 

●文化5(1808)年 55歳のとき、中宮御所より、翌年、東宮御所より、年々御祈願の御用を仰せつけられた。このとき、すでに従六位上日向目源朝臣都愷と名乗っていた。このころ、建仁寺新地池殿町に住居し、主殿寮史生であった。

 

●文化6(1809)年 56歳のとき、神道信仰徹底のため、幾多の困難を甞め、万難を排し、8月3日、正法寺の塔頭清林庵の土地を買い受け、神道葬墓地を創設し、11月霊明神社を創立した。

 

●文化8(1811)年 58歳のとき、「洛東霊山神石図・霊明舎」を著述し、その奥書に従六位上日向目村上源朝臣都愷敬白とある。

 

●文政2(1819)年 4月25日、66歳にて神去り、霊山の神葬地に鎮まりまして、永遠にここに葬ります神霊等を護るところとなります。


医家 今藤玄俊

初世・都愷には今藤玄俊という息子がいた。詳しいことは現在、調査中である。以下、近世京都のいわゆる名士、市井の紳士録、各方面の文化人などを紹介した『平安人物誌』における今藤玄俊の略伝である。

 

「今藤玄俊(寛政元年~ ) 医家。字は秀甫。済世館又は乳足廼舎と号した。後今藤常陸大掾に任じた。京都の人寛政元年村上都愷の男として生れ後今藤氏を継いで綾小路室町西に住み医(小児科)を業とした。和漢の衆説を究め、治術に尽したが、傍神道学及び考古の学に興を寄せ書もまたよくした。文化十二年には主殿寮の史生に補せられ文政五年には常陸大掾に任し嘉永四年には主殿大属に任ぜられた。(文政五 医家 文政十三 医家 天保九 医家 再出 文雅 嘉永五 医家 再出 文雅)」

 

出展:国際日本文化研究センター 平安人物誌 DATABASE 

   https://lapis.nichibun.ac.jp/tanzaku/260/info.html

2世・村上美平
2世・村上美平
3世・村上都平
3世・村上都平