村上市次郎設立の学校「省思館」

 明治20年(1887)5月、市次郎は西洞院三条北に惟神学校を設立している。詳細はわからないが、近代化の影響による日本人の心の乱れを問題視し、子どもたちに神ながらの道を教える補習教育を行っている(私塾と思われる)

 明治23年(1890)10月30日にはいわゆる「教育勅語」が渙発(発布)された。市次郎とすれば我が意を得たりという思いであり、これにより惟神学校の教育方針も定まったとある

 教育勅語の影響か生徒が増えたため、明治27年(1894)に姉小路新町西入津軽町つまり高松神明神社に場所を変え、『惟神會』(明治23年1月に市次郎が設立。神ながらの道を徹底する信徒の会。詳細は別途、紹介予定)の事業として各種学校(私学)に形態を変え、本格的な学校運営を始める。『京都府学事年報 明治26-27年』によると習字を教えていることがわかる。もちろん、科目としての習字であり、広く徳育を施していたに違いない

 

 また、近江の蒲生郡(現在の滋賀県日野町)出身の教育者・中森孟夫が明治23年(1890)に仏光寺内光園院(室町仏光寺上ル白楽天町)に泰西簿記学校を設立している。明治25年(1892)に学校の場所が柳馬場御池下ル八幡町に移転している。そして、明治27年(1894)には高松神明神社に場所を移し、市次郎が中森から校長を引き継いでいる。場所を転々としているのは経済的な理由があってのことか詳細はわからないが、高松神明神社への移転は中森が日清戦争に従軍して京都を離れてしまうことが大きな理由ではないかと推察する

 中森孟夫は明治35年(1902)には現在の京都橘学園(京都橘大学と京都橘中学校・高等学校)の前身となる京都女子手芸学校を設立するなど、京都高等学院等の多くの教育施設の設立に携わっている。市次郎とどのような関わりがあったのか非常に興味深い。ちなみに、中森は泰西簿記学校の分校として「省思館」を設立している。これは陸軍士官学校、医学校、高等学校入学の予備校である。後に市次郎がこの省思館という名前を使っているのはこれに由来すると思われるが、中森の想いを継承するほど親しく交流していたのだろうか

 

 以上、明治27年(1894)から惟神校と泰西簿記学校が同時に高松神明神社の社務所で始まっている。しばらくは、この2校体制が続くが、明治33年(1900)には泰西簿記学校は「省思館泰西簿記学校」と名称を変更している。翌年、惟神校は休校となり閉校する。簿記学校の名称変更はこのことを視野に入れたものであったろうか。2校で行っていたこを1校で行おうということだったかもしれない

 明治44年(1912)からは名称を縮めて「省思館」としており、科目もこの頃から増加させ、徳育を中心としたものに変わっている。『京都市学事要覧』(明治42-44年)によれば、主なる教科科目は「國、漢、数、英、簿」となっている。大正12年(1923)市次郎が神去るまで校長を続け、そのあとは息子・村上春一が引き継いでいる。正確な年はわからないが、省思館は昭和の初期、戦前まで続いた

 

惟神校では明治23年から明治33年の10年間に200名を越える卒業生を輩出している。また、省思館は明治23年から大正2年までの参考値となるが、この23年間に850名を越える卒業生を輩出している(調査時点で把握できた『京都府統計書 大正2年 第2編』の数字)。2校を合わせると、ゆうに1000名を越えており、市次郎が神明奉仕とともに子どもたちの教育に心を尽くしたことがよくわかる

「省思館沿革概略」京都府学事関係職員録13年(京都府教育会、大正11-14)
「省思館沿革概略」京都府学事関係職員録13年(京都府教育会、大正11-14)

 6世神主・村上春一が記した「省思館沿革概略」は、やや正確性に欠けるが、省思館の趣旨はよくわかる

※文中の「明治三十三年」は「明治二十三年」の誤り

※また、簿記学校との経緯などには触れられていない

省思館の印章
省思館の印章