村上市次郎が主宰した「惟神會」について

■惟神会設立の経緯とその目的

 村上市次郎は明治23年1月7日に惟神会を設立している。神社にその趣意書が残っている。明治維新により日本が西洋に学ぶようになると、西洋文明に心酔し、日本の神道を軽んじて、外国の神を信じるようになる人が増えたという。目の前の利益に走る人も増え、人心が乱れるところとなった。市次郎はこのことを大いに憂いた

 そこで、市次郎は国体という言葉を用いて、日本のあるべき姿を説き、神ながらの道を徹底するための会を発足させる。これが惟神会である。これはまるで国学を講じて神ながらの道の徹底のために霊明舎(霊明神社)を創設した初世・村上都愷の姿と重なるようでもある(ちなみに初世・都愷たちは「国風」という言葉を用いている) 

惟神会趣意(明治23年1月7日)
惟神会趣意(明治23年1月7日)

 盟約に目を通すと「三條ノ大旨終身之ヲ謹守ス」とあり、ここでは明治5年(1872)4月に発布され国民教化の「三條教憲」を守ること明文化している。この三条の教則とは

 

第一條

一、敬神愛国ノ旨ヲ体スヘキ事

 

第二條

一、天理人道ヲ明ニスヘキ事

 

第三條

一、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事

 

であり、市次郎はこの教則に基づいて国体を説いている。市次郎の言葉を見てみると、神ながらの大道は、国体の基本である敬神・尊皇・愛国で成り立つとしている。また、天照皇大神の遺訓であり、天が定めた秩序で人が守るべき道、倫理だという。天地や祖先などの恩に報い、皇室をその宗家として仰ぎ奉ることが臣民であるという。このようなあり様が日本人としてよりよく生きることがであり、それが連綿と続くことで日本という国が美しく維持されていくという考え方である。これまでにも議論はされているところではあるが、市次郎は教育勅語に先駆けて同様の日本人の道を示していたのである

惟神会の盟約と会員(創立員と賛成員)
惟神会の盟約と会員(創立員と賛成員)

■惟神会の会員について

 さて、この惟神会は市次郎をはじめ14人の創立員(5世・歳太郎の名前もある)とその賛同者11人から成る。メンバーを見ていると、当時の市次郎の私塾・惟神学校がある場所(西洞院三条北)の近くに住まいする人たちが多いことがわかる。高松神明神社の氏子のエリアとも重なっており、後の宮司就任にもつながってくるのだろうと思われる(現在の高松神明神社奉賛会のメンバーの先祖もここに名を連ねている。令和6年現在)。また、霊明神社の社中になっている名前も多い

 場所柄、呉服関係の仕事をしている人たちが多く見られるが、その中には栃木県工業高校の初代校長を務めた「近藤徳太郎」と思われる名前がある。惟神会の頃は京都織物会社に勤めていたようだ。近藤徳太郎はフランス勧業留学生の 1 人で帰国後、明治 17 年殖産設備の京都府織殿に勤めている。その後、川島織物の皇居造営織物の制作に関わり繊維技術の発展に大きな功績を残したという。おもしろいのは『若冲画譜』の編集を行っていること。伊藤若冲の花鳥画が図案参考に使えると思い先見の明で企画制作されたのではないかという(参考:京都文化芸術振興プラン実行委員会のKYOTO ARTCULTUREで開催された若冲ワークショップ第 3 回「木版画」(2013年10月19日) http://www.kyoto-artculture.com/workshop/tmp/3rdWS.pdf)。おそらく本人で間違いないと思われるが、当時の神社や市次郎と関わりを示す史料として興味深い

■惟神会の解散と再興について

 この惟神会は明治25年2月に解散している。これは国体と惟神の道を説いた教育勅語が明治23年10月30日に発布されたことにより、惟神會が一定の役割を終えたことにある

 しかし、そのすぐ3月には惟神会を再開している。趣旨としては、この教育勅語の大旨を民心に広げ貫徹することである(その機関として「談道社」を名乗る)

 明治27年には市次郎の設立した私塾の惟神学校を各種学校に変えて、この惟神会の事業にしている

惟神会の解散(明治25年2月)と再興(同25年3月)
惟神会の解散(明治25年2月)と再興(同年3月)

■再興時の会員について
 再興者として市次郎のほか3人が名を連ね、新加名信徒18人が名を連ねている。この中には黒住教の関係者の名前をたくさん見つけることができ(もっとも、初期の惟神会の中にもいたかもしれないが現時点では把握できていない)、霊明神社の社中になっている人たちが多数いる

※署名の日付は明治25年11月となっており、再興した3月からは間が空いているが、その理由はわからない

惟神会再興時の会員(再興者と新加名信徒)
惟神会再興時の会員(再興者と新加名信徒)

■平野次郎国臣らの埋葬された遺骨を同定し、墓地再建に貢献した人物・岸孝十郎

 会員の中には新島八重の最初の夫・川崎尚之助の兄である「川崎友七」の名前もあるが、ここでは「岸孝十郎」に注目したい

 岸孝十郎は後年、平野次郎国臣らの埋葬された遺骨を同定し、墓地再建に貢献した人物と思われる。平野次郎国臣らは禁門の変の影響により六角獄舎で処刑されてしまうという非業の死を遂げた志士である(その神霊は霊明神社で祀られ、霊山に招魂の墓地を建立している)。その亡骸はお土居西の仕置場(二条西刑場)に移され埋葬されたという。後にこの場所が京都府勧業課の肥料をつくる用地になり、明治10年に京都府勧業課が土地を掘り返したところ、この遺骨が発見されるところとなる。霊山招魂社がこの埋葬を断ったため、竹林寺に改葬されることになる。当初は仏像石を安じ標示木塔婆を建てるなどしていたが、時がたち残念ながら風化してしまう。石像も標示木塔婆も喪失してしまい、どこにあったかわからなくなったという。明治42年、竹林寺の住職が境内に樹木を植えようとしたところ、この遺骨が現れた。どういう遺骨かわからず、相談した相手がこの岸孝十郎であった。岸孝十郎らはこの遺骨が平野らの遺骨であることを突き止め、再び竹林寺に墓地を建立するに至るのであった

 この岸孝十郎は尼僧で歌人・陶芸家の大田垣蓮月のことを崇拝していたという。岸孝十郎は、富岡鉄斎や西川耕蔵とともに梅田雲浜の門下で学んだ吉田嘿(玄蕃)から蓮月の話を聞いている。霊明神社の志士の葬送に大きく関わる吉田嘿は梅田雲浜と関わり、梅田雲浜は連月と関わり、吉田嘿と連月は共通の雲浜のことをよく語り合ったという。ここでは詳細は省くが、太田垣連月という人もまた勤王の志士らと交流を持った人物であり、雲浜のみならず多くの志士のことを語ったであろうと思われる。以上のような関係を鑑みるに、岸孝十郎という人は必然的に霊明神社に大いに興味を持ち、関わりを持ったことであろう。岸孝十郎がこの惟神会(談道社)に加わるのにはこういった背景もあったのではないかと推察する

 

※岸孝十郎のエピソードについては、『明治文化と明石博高翁』(田中緑江 編、明石博高翁顕彰会、昭和17)や『蓮月尼全集』(村上素道 編、蓮月尼全集頒布会、1927)などに詳しい。蛇足となるが、この平野次郎国臣の埋葬の一件について、明石博高が彼らの神葬を当時担った霊明神社に問い合わせをしている。「…平野國臣伝中ニ伯爵東久世通禧卿ノ撰ニ成レル靈山平野國臣君ノ碑文ヲ戴ス、遇々ヲ讀み、文中ニ君之被刑也莫収葬之君不詳遺骸所在トアルニ至テ果然前年竹林寺ニ改葬セシ志士遺骸ノ事ヲ想起シ、尚念ノ爲メ靈山ノ祀祭靈明社主ニ知人何某ヲシテ詢フ所アラシメシニ、靈山ニ於ル国臣君ノ墓碑ハ、實ニ招魂表ニシテ遺骸ヲ瘞ルニ非ズ、君ノ遺族モ亦之ヲ歎ゼリトノ事ニシテ、又國臣君ニ縁故深キ成就院忍向上人ノ従僕大槻重助ノ未亡人ニモ、此事由ヲ話セシニ、曾テ重助在世中ニハ君ノ遺骸ノ不明ヲ慨シ、靈山招魂碑ニ詣デテハ之ヲ歎ケリト・・・」(『明治文化と明石博高翁』)。この山ノ祀祭靈明社主とは村上歳太郎のことである。明治10年に遺骨が発見されたとき、どうして霊山の奥都城に埋葬しなかったのか。霊山墓地は明治8年には上知となり、霊明神社の所有ではなくっていたため、村上歳太郎がその埋葬について口を出すことはできなかったと思われる。霊明神社のままであったならば、迷わず埋葬していたに違いない