令和5年10月8日に故村上市次郎大人100年祭を斎行ご参列いただきました皆さま、よくお参りくださいました

この100年祭の記念事業の一環として、市次郎大人を紹介するページを作成いたしました。ご高覧いただければ幸いです

霊明神社 五世 村上市次郎(1867-1923)

霊明神社5世神主・村上市次郎
霊明神社5世神主・村上市次郎

 霊明神社には5世・市次郎の記録がそれほど残されていない。大半の時間を高松神明神社で過ごしたからであろう

 村上家は官祭招魂社の建立や上知などに伴い、明治になってからは経済的に厳しい状態になり、4世・歳太郎夫妻も出稼ぎに出ねばなかったほどである。市次郎もまた経済的拠り所となる場所を外に求めなくてはならなかった。その場所となったのが黒住教である。市次郎は自身の努力と縁により、黒住教の神職になることで身を立てた。そのことが高松神明神社の社掌就任につながり、市次郎の人生が花開くのであった。市次郎は神職の神明奉仕に務めながら、神ながらの道を説くことや教育にも熱心に活動した(「惟神会」「省思館」)

 自身の道を切り開き、神明奉仕に尽くすも、高松神明神社のみならず霊明神社の護持やその家族を支えねばならず、経済的にも精神的にもかなり負担を強いたことは否めなかった。市次郎の三男で京都の音楽界を支えた中原都男の述懐では「家の犠牲の見本の様な生涯であった。小学校四年切りで独学で論語や孟子を読み、ナショナルリーダー三巻を読み、高等数学なども物にした。そして、省思館と言う私塾を神明神社内に開き収入を補った。その収入の大半は、自分の弟妹達にはぎ取られて行った。晩年は羽富家の没落でその肩代わりをして貧しい中で亡くなった。五十六才だっと思うが惜しい人物であった。家の重さが父を胃癌で押しつぶしたと言っても良い」(都男追憶)と振り返っている。神職として輝いたことは間違いないが、苦労は絶えない生涯であった

<略歴>

■慶応3年5月2日、四世歳太郎と美祢子の次男として生まれる(長男・寅太郎は夭逝)

 

■市次郎幼少の頃より歳太郎も美祢子も京都を離れるため、市次郎は母の実家である羽富家に預けられることになり、伯母の久が面倒を見ていた

 

■10歳になると京都市上京区東魚屋町の石橋久三良方に奉公に出される

 

■明治15年、16歳のとき『体育場』(府立体育演舞場)に入学

 『体育場』とは京都市内の青少年に体育・武術を教える施設で、有志の剣術家が練習する施設。責任者は、北辰一刀流桶町千葉道場の創設者・千葉定吉の長男である千葉重太郎である

 千葉重太郎は鳥取藩にも士官しており、霊明神社と関係のある志士たちとも交流がある。また龍馬の実質的な剣術の指導者でもある。巡り巡って市次郎と縁ができることも興味深い

 

■明治16年、霊明神社南墓地の新規開拓にあたっては、父の代理で申請を行っている。神社の実務も担っているが、この頃から市次郎は黒住教の神職になっている

※明治20年頃より南墓地には黒住教信徒20家以上の墓が建立されており、市次郎の関わりによるものと思われる。その中には新島八重の最初の夫である但馬国出石藩士・川崎尚之介の兄・川崎友七がいる

 また、霊山墓地には三世・都平の時代から黒住教教祖・黒住宗忠の息女・天留の墓があり、もともと黒住教とも関わりがあったと思われる

 

■明治17年、歳太郎が隠居願いを出し、市次郎は18歳で家督を相続し、5世神主となる

  

■明治20年、西洞院三条北に惟神学校を設立する

 

■明治23年1月に日本のあるべき姿を説き、神ながらの道を徹底するための惟神会を設立する

 

■明治23年4月10日、高松神明神社の祠掌(宮司)となる

 当時、高松神明神社は、菅大臣社の社掌・西池季利が兼務をしていたが、氏子たちが兼務ではなく常駐する神職を置くことを求めた。当時、黒住教説教所の所長をしていた市次郎に白羽の矢が立つ。この説教所も社務所に移してまでの肝いりの祠掌就任となった。市次郎はすでに霊明神社の後を継いでいたが、父・歳太郎が健在であり、霊明神社の日々の社務は歳太郎や家族が行うということであったと思われる。こうして市次郎は高松神明神社に住むようになる

 

■同年6月には護持組織「松栄講」の貯蓄により「本殿弊殿拝殿御屋根替其他悉皆大修繕」の事業に取り組み、正遷宮を執行

 

■明治27年、惟神学校と泰西簿記学校が高松神明神社の社務所に移転する

 

■明治29年12月より「高松神明神社記録」を執筆する

 高松神明神社の起源や由緒から始まり、現在の「年中祭典次第之事」までを記している

 たとえば、記録によれば、廃仏毀釈により神明地蔵尊も危うくなるが、社務所内に密かに移したことで難を逃れ、後年、市次郎が境内に地蔵堂を建立してから、その姿を見ることができるようになったことがわかる

 

■明治45年5月には、黒住教神楽岡会より感謝状が贈られている(正会員になる)

 当時の神楽岡会の会長は黒住宗子(むねやす)(黒住教4代管長)

 神楽岡会名誉総裁は公爵・二条基弘である

 

■大正6年には南墓地の地続きの余地を拡張して総34坪とした

 

■大正11年10月の月俸給与表によれば、この時、宗忠神社の社掌も兼務していることがわかる

 

■大正12年10月8日、市次郎は57歳にて神去る(長男・春一が霊明神社と高松神明神社を継承する)

叔母・羽富久と市次郎
叔母・羽富久と市次郎
市次郎自筆
市次郎自筆
黒住教神楽岡会より市次郎への謝状
黒住教神楽岡会より市次郎への謝状
市次郎奥都城(霊明神社南墓地)
市次郎奥都城(霊明神社南墓地)


市次郎の日記より。。。

市次郎の日記
市次郎の日記

 明治40年(1907)1月から始まる市次郎の日記が残されている

 例えば、明治40年5月11日には「本月12日招魂場忠魂ノ神霊50年祭ニ付、装束新調ノ為、父入来、昨日ヨリ母病気」。15日には「本日永久忘ル能ハザル日ナリ・・・・・記セル能ハズ」とある

 8月9日には「例年ノ通リ霊山ノ宅へ祭典ノ手伝ニ行ク」とある。日常は高松神明神社で社務を行い、祭典や用務のあるときだけ、霊明神社に来ている。日記によると大正9年(1920)に歳太郎が神去るまで高松神明神社の社務所に住まいしていることがわかる

※現在も日記の判読作業が続いています


故村上市次郎大人100年祭(令和5年10月8日)



高松神明神社について

■延喜20年(920)、醍醐天皇の皇子・高明親王が源氏の姓を賜って臣下の列に入り、源高明となる

■高明公の御殿「高松殿」に起源を持つ鎮守社が「高松神明社」。「洛中洛外図屏風」第5扇に「しんめい」とあるのがそれである

■高松神明社は高松神明宮宝性院といい、長らく東寺の塔頭寺院と兼職である社僧が管理する寺院であった。境内には稲荷神社・高松天満宮・金比羅神社のほかに、不動明王・弘法大師・神明地蔵尊が末社として祀られていた

※神明地蔵尊は真田信繁(幸村)の念持仏である。寛政6年(1794)、当時の社僧が紀伊国真田庵に安置してあった念持仏を拝領して持ち帰って祀ったもの

■元治元年(1864)の禁門の変の大火で高松神明宮宝性院は大半を焼失

■明治元年(1868)の「五箇条の御誓文」が発布され、太政官による神仏分離令が出る。これにより、当時の社僧・14世伝燈大法師法印戒浄は明治6年(1873)になって社僧を辞して還俗し、名を吉田主計とあらため、初代の神官となる

■同年6月には寺号院号を廃止て、天照大御神・八幡大神・春日大神の三柱を御祭神として村社・高松神明神社とあらため、社殿も新造する

■明治16年(1883)、二代目・吉田邦時、三代目・田口賀茂のもとで、本殿・弊殿および拝殿の再建もなる

■明治17年には御神輿・神社門・高堀・鳥居が奉納・建立される

■明治20年には田口賀茂が辞任し、菅大臣社の社掌・西池季利が4代目の社掌として兼務する

■明治23年に、信徒総代たちの願いにより村上市次郎が常駐の神職として5代目の社掌となる

■同年6月には護持組織「松栄講」の貯蓄により「本殿弊殿拝殿御屋根替其田悉皆大修繕」の事業に取り組み、正遷宮を執行

 

■令和2年(2020)には、御鎮座1100年を迎えた

 <約10年に及ぶ記念事業>

 ・水琴窟の手水の奉設

 ・壁画「平成神幸行列絵巻」の奉納(原画は林屋拓翁画伯)

 ・神明地蔵尊の地蔵堂の洗い出しと大屋根の改修

 ・源高明公を祀る「高明社」創建

  ※源高明公は紫式部の『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされる。

 

 高松神明神社は現在も村上家が社家を務め、代々神職を務めている

源高明の神社 全国初建立(京都新聞2022年10月14日)
源高明の神社 全国初建立(京都新聞2022年10月14日)