霊明神社7世神主・故村上壽延大人の5年祭記念事業の一環として紹介記事を作成
戦後の日本の復興の歩みと共に、霊明神社の復興を果たした中興の祖。実弟に高松神明神社の宮司を務めた村上修(故人)がいる
※高松神明神社は5世・市次郎より村上家が神主を務めている
幼少の頃より社務を手伝い、父の6世神主・春一を助けた。まっすぐな性格で曲がったことを嫌った。自分に厳しく、宗教・宗派を問わない修行を数多く実践した。その人柄や神主としてのあり様から、多くの神職や社中から信望を集めた
祀ることは厳格であった。弟の正敏がロシアで捕虜となり戦病死したこともあり、戦没者の慰霊には生涯をかけて誠を尽した
戦後の霊明神社は、再び厳しい経営を余儀なくされました。7世神主・壽延は霊明神社で奉職する傍ら、市役所や企業などにも務める二足の草鞋の生活が長く続いた
また、第2室戸台風にも襲われ、社殿・家屋が壊され、その復興に尽力した。壽延の時代に大きく2度の改築工事を行っている
現在、霊明神社に多くの人がお参りできるようになったのは、壽延やそれを支えた多くの方々によるところが大きい
大正10(1921)年 | 六世神主・村上春一の次男として誕生。長男早世のため幼少より6世神主の手伝い霊明神社・高松神明神社他兼務神社、霊明神社管理墓地清掃等 |
昭和 9(1934)年 | 京都市城巽尋常高等小学校卒業 |
昭和15(1940)年 | 京都府立二中夜間中学卒業 |
昭和16(1941)年 | 京都國學院卒業後、官幣大社平安神宮に奉職も、入営のため12月に退職 |
昭和17(1942)年 | 中部九部隊(名古屋師団三島野戦重砲兵第二聯隊第三大隊第九中隊)入営 |
昭和20(1945)年 |
8月15日終戦。部隊は解散し、残務整理にあたる占領軍屯営接収引継終了後、11月6日帰宅。11月8日より伏見稲荷大社に奉職 |
昭和21(1946)年 |
恵美須神社第35代宮司・中川弌郎の次女・具子と結婚。伏見稲荷大社退職後、安井金比羅宮の主管に就任 |
昭和25(1950)年 | 安井神社の主管を辞任し、霊明神社に奉職 |
昭和26(1951)年 | 霊明神社社家に就任 |
昭和36(1961)年 |
霊明神社責任役員に就任。11月に第二室戸台風で社殿が被災し、復旧に尽力する |
昭和37(1962)年 | 霊明神社代表役員に就任し、7世神主となる |
昭和44(1969)年 |
霊明神社初世・主殿寮史生従六位村上日向大目源朝臣都愷大人150年祭斎行 |
昭和61(1986)年 | 霊明神社拝所兼社務所改築工事 |
平成元(1989)年 |
霊明神社創祀180年記念祭斎行。霊代・神座一式新調 |
平成14(2002)年 | 霊明神社境内整備工事 |
平成19(2007)年 | 霊明神社代表役員辞任 |
平成27(2015)年 | 94歳で神去る |
・水行:霊明神社社頭水槽前100日間
・写経:霊明神社神前100日間(摩訶般若波羅密多心経)
・滝行:奈良吉野山大峰修験道根本霊場・納経百巻
熊野那智神社 那智の滝
京都清水寺 音羽の滝
・断食:霊明神社神前30日間
比叡山居士林 七日間
比叡山居士林 千日回峰行見学
・巡礼:国内多数。海外では奇蹟の聖地ルルドなど
■インタビュー記事
その他
・霊明神社に奉職する傍ら、株式会社ヒエン堂にも長く勤めた。ヒエン堂の片岡会長には霊明神社の復興にもお力添えいただき、公私ともに支えていただいた恩人であった
・神社本教においても評議員を務めるなど長年貢献
・壽延の長女に京都の教育界に貢献した村上美智子がいる。令和3年春の叙勲にて瑞宝双光章を受ける。美智子は、御所南小学校の校長時代にフィンランドの教育を取り入れ、子どもたちの読解力を向上させるとともに、教職員の能力向上に力を注いだ。また、コミュニティスクールの研究と実践においても多大な貢献をしている。文科省の熟議に関する委員会等で委員を務めた。御所東小学校の設立にも尽力。共著に『京都コミュニティ・スクール物語:御所東小学校の軌跡』がある。
最終的に神社本教からは黒位を授かっている。現在、教令書を捜索中