令和4年10月8日に故村上市次郎大人100年祭を斎行ご参列いただきました皆さま、よくお参りくださいました

この100年祭の記念事業の一環として、市次郎の三男・中原都男を紹介するページを作成しました。ご高覧いただければ幸いです

音楽家・中原都男(1900-1970)

中原都男
中原都男

 霊明神社5世神主・村上市次郎の三男で、京都の音楽界を支えた中原都男(くにお)がいる。村上家は初世・都愷、3世・都平、4世・都順(歳太郎)と代々「都」をつけることが多かった。都男の名前もこのことを意識して命名されている。都男本人も自身の名前の意味を考えて生きていたようである

 都男は父・市次郎と同様に小学校を卒業するまでは、親戚の羽富家へ預けられた。羽富の家は四条通から三条通まで細長い裏寺町にあった。京極や隣の家を借家にしており、経済的に余裕があったようである

 幼少期はこのあたりの繁華街でさまざまなものを見て育っており、都男の感性を大いに磨いた

 この幼少期のさまざまな体験から「音」に敏感になり、師範学校からはオルガンやピアノを弾くようになり、教師から音楽で認められ、自信がついたようである。ここから音楽に心が傾くようになる

 師範学校を卒業すると、経済的に独立するために小学校の教師になるが、ピアニストのレッスンも受けながら音楽は続けていた

 転機が訪れたのは親戚の中原家へ養子に入ることであった。都男はその条件として、音楽学校への進学をあげたのである。ここから東京音楽学校(東京藝術大学音楽学部・大学院音楽研究科の前身)に入学するために猛レッスンに勤しむ。こうして、無事に東京音学校への入学を果たし、都男の音楽家としての道が始まるのであった
 卒業後は師範学校や堀川高校(堀音)勤務を経て、京都市立音楽短期大学(京芸)で教授になっている。京都市立芸術大学創設の際も尽力しており、同大学 音楽学部 音楽教育研究会の「京都子どもの音楽教室」の初代室長を務めている。また、研究や教育のかたわら、作曲も行っており、京都の小学校の校歌なども多数手掛けている

 都男は音楽で成功した後も、霊明神社や村上家のことを気にかけていた。たびたび、霊山の村上邸に訪れており、家族会議に参加したり、村上家のすいか祭などにも参列した。兄の6世神主・春一を助け、甥の・七世神主・壽延ともよく交流した

<略歴>

■明治33年1月 霊明神社5世神主・村上市次郎の三男として生まれる

■明治45年3月 京都市立立誠小学校卒業

■大正5年3月 京都市第一高等小学校卒業

■大正9年3月 京都府師範学校本科第一部卒業

■大正9年4月 京都市新道尋常小学校赴任(訓導)

■大正12年4月 京都市第一高等小学校赴任(訓導)

■大正13年4月 東京音楽学校入学

■大正13年10月 伯母・中原ミツの養子となり改姓

■昭和2年3月 東京音楽学校卒業

■昭和2年4月 山口県師範学校赴任(教諭)

■昭和3年3月 京都府師範学校赴任(教諭)

■昭和3年11月 大礼記念章を授与される

■昭和15年11月 紀元2600年記念祝典記念章を授かる(祝典参列)

■昭和17年9月 京都市立堀川高等女学校赴任(教諭)

■昭和17年10月 京都市視学委員就任

■昭和19年7月 従七位に叙せられる

■昭和23年5月 京都府文化委員就任(教育委員会発足により退任)

■昭和23年10月 京都市立堀川高等学校赴任(教諭)

■昭和27年4月 京都市立音楽短期大学赴任(講師)、教務補導課長心得を命じられる

■昭和29年1月 同大学助教授就任

■昭和39年5月 同大学教授就任

■昭和40年3月 同大学定年退職

■昭和40年4月 同大学非常勤講師となる

■昭和41年4月 私立京都家政学園短大教授就任

■昭和44年3月 市立音楽短大非常勤講師退任

■昭和45年3月 京都家政短大教授辞職

■昭和45年4月 滋賀女子短大教授就任

■昭和45年8月 永眠。従四位に叙せられ、勲三等瑞宝章を授かる

若かりし頃の都男
若かりし頃の都男
中原家奥都城(霊山墓地)
中原家奥都城(霊山墓地)

※3世都平の妹・静子の娘・ミツが中原家へ嫁いでいる。都男はこの中原ミツの養子となる。中原家は仏教徒であるが、村上家の親戚関係にあり霊山に墓地を改葬することが許された



『都男追憶』にみる村上家とのエピソード

 昭和46年、都男の一周忌に合わせて発行された『都男追憶』があり、ここに都男が自身の生涯について、幼少の頃から師範学校に勤めるまでのことをまとめている遺稿がある。都男の生涯をよく知れるが、戦争時の民衆の様子であったり、スペイン風邪の流行など当時の様子についても記述があり、時代背景もよくわかる貴重な読み物でもある。この追憶から神社や村上家に関する記述をいくつか抜粋してみよう

 

小学校を卒業し、羽富家に養子を迎えるときのエピソード

■第一次世界大戦が始まったので日本は連合軍についた。幾らでも金がもうかる、これからは商売人の天下だと言うので私を室町仏光寺の「衿正」という店へ奉公さす事になった。全べての準備を整えて「さあ」と言う時になって村上の祖父(歳太郎)が大反対をした。家は神主の家である。以ての外の事であるというのである。伯母は養子が来るのと同時に私を村上に返した。一つの筋を通したのであろう。都さんこれからはあんたにお金を上げる事は出来ぬ様になったと言うのである。村上へ帰ったけれ共相変わらずの貧乏である。そこで父は私を金のかからない師範学校に入れる様にした

 

師範学校のエピソード(祖父・歳太郎のこと)

■父の計らいで霊山から通う事になった。何うやら祖父の守役という訳であったろう、これが大変な事であった。祖父は一升瓶である、7時から吞み始めて9時終る。それから乱れるのである。三枝と言う士が切腹に使ったと言う日本刀を持ち出してさわぐのである。私はよく向いの竹藪に逃げ込んだ。祖父が寝てからカンテラに火を燈して12時迄勉強するのである。志を遂げなかった事と妻に先立たれた事が祖父の心を凄ませたのであろう。淋しい人であった

 

新道小学校赴任時、祖父・歳太郎を亡くしたとき

■二十三才の時である。然しこの方は東京へ行き度くても行けぬので、好きだからやっていたと言うのである。序に祖父は兵隊中に亡くなって居た。祖父が居たらもっとやれと励ましてくれたに違いない。越後獅子を都都逸位弾けと言ったに違いない

 

父・市次郎を亡くしたとき

■家の犠牲の見本の様な生涯であった。小学校四年切りで独学で論語や孟子を読み、ナショナルリーダー三巻を読み、高等数学なども物にした。そして、省思館と言う私塾を神明神社内に開き収入を補った(都男も省思館で教えている記録がある)。その収入の大半は、自分の弟妹達にはぎ取られて行った。晩年は羽富家の没落でその肩代わりをして貧しい中で亡くなった。五十六才だっと思うが惜しい人物であった。家の重さが父を胃癌で押しつぶしたと言っても良い


中原都男の音楽界への貢献

 都男が音楽の道に進み、指導者として身を立てていきます。ここでは特に後半生の音楽界への貢献について言及してみたい

 戦後の日本はGHQによる統治が始まり、さまざまな改革がなされた。その大きな改革の柱の一つが教育であった。京都の教育界とりわけ音楽教育では、これまでの中央集権的な教育のあり方を反省し、京都は京都の主体的な教育のあり方を再構築しようとするのであった

 昭和21年1月5日、教壇音楽人懇談会が開催され、学校種別に研究組織を結成することになる。小学校部門では同年9月に京都市音楽教育研究会が結成される。これらには都男もメンバーと参加している

 都男はこの頃、京都市教育局視学委員をしており、文科省や京都府、京都市や研究会などをつなぐパイプ役にもなっており、このことがさまざまな講習会の企画につながり、この人材の交流を通じて、新しい音楽教育を京都からつくるという思いが共有されるようになった。このことが近畿音楽教育連盟の結成につながり、さらには日本音楽教育連盟という全国的な組織にまで展開する一因にもなっている

 

 また、昭和21年4月には上村けい・吉田恒三・井口基成らにより音楽文化の向上を目的に京都音楽研究所が発足し、スタッフは本務のかたわらそれぞれ講師を担当。都男も音楽史を担当している。昭和21年5月に堀江友広・住谷悦治らが友山荘という教育組織をつくると、人文科学・絵画・工芸・音楽などの振興のために学校を設立する。京都音楽研究所もその一部門となり、京都人文学園音楽部と称することになる

 

 昭和22年8月には「民主化のための音楽教育講座」が開催される。これはアメリカ第一軍団民間情報教育部のアンダーソン部長の発意であり、京都市音楽教育研究会が主催したもの。この講座には近畿の音楽家・音楽教育家が約600人が集まり、音楽教育の大きな指針を与えたものとして高く評価された。都男も「鑑賞の指導」という講座を担当している。また、この講座では京都市児童合唱団がアトラクションとして合唱を披露している。京都市児童合唱団は現在の京都市少年合唱団の前身ともいうべき存在である。児童合唱団は昭和22年5月から25年度末まで開催された合唱実験の試みであった。団員は全市小学校から推薦された5~6年生40余名からなる。この指導にあたったのが都男である。都男によると戦時中の粗野な地声(胸歌)による非生理的な子どもの発声法に悩まされた苦い経験に基づき、自然で美しい発声に導くための方法を見出すための実験を試みたとのことであった

 この講座の開催を契機に近畿の音楽関係者たちが相互連携できる機関を求めるところとなり、その結成が京都の音楽教育家たちに任されるところになる。こうして、昭和22年10月に京都府音楽教育連盟が誕生し、都男はこの理事長に就任する。さらに、同年12月には近畿音楽教育連盟が結成され、その理事長に都男が就任する

 昭和23年2月に愛知県以東の地域を包括する東日本音楽教育連盟が誕生している。この連盟より全日本的な組織を企画するために近畿音楽教育連盟に協力が求められた。これにより昭和23年6月に誕生するのが日本音楽教育連盟である。設立の趣旨には、音楽教育学会の創設、教員養成のための音楽教育大学の創立、器楽教育施設対策、教員再教育、教科書編集、機関誌の刊行などが謳われ、全日本音楽教育の総力を結集してことにあたろうとする楽教育家たちの熱量を相当に感じるものである。理事長に鳥居忠五郎、副理事長に小島喜久寿と都男が就任する。また、事務的な事情でこの連盟を東部と西部に分けるが、この西部の理事長を都男が務める。京都のみならず西日本の顔として重責を担うことになる

 

 昭和22年の学習指導要領音楽編試案を経て、昭和23年に学習指導要領音楽編が発行されると、都男らはこの新音楽教育普及のために尽力する。特にも器楽教育においては当時反対の声も多く、その普及には苦心したようである。大丸京都店で演奏を伴う楽器の展示会を開催するなど、さまざまな工夫を行いながら、各学校に教育用楽器を配給していく。今となっては学校に楽器があることはあたり前のことのようであるが、当時としては京都の取り組みはかなり先進的であり、全国から視察が押し寄せた。例えば、錦林小学校には年間三千人を越えるほどであった

 

 こうした中、いよいよ、京都で音楽教育の専門機関をつくる構想が具体化していく。GHQでも文部省でもない、京都主体の民主的な音楽教育の再構築は評価されることになり、文部省社会教育視学官・諸井三郎氏の後押しも受け、高等学校において音楽課程の設立に動く。都男の手腕がいかんなく発揮されるのであった

 アメリカ軍政部との交渉、京都府や京都市への要望、支援者の獲得、文部省への相談や申請、カリキュラムの作成など枚挙にいとまがないが、艱難辛苦の末、昭和23年10月に府、市新制高等学校が再編され、市立堀川高等学校に音楽課程が加わり四課程となる総合高等学校として新しく発足する。ここに我が国に初となる公立高等学校における音楽科が創立した。さらに昭和25年4月には二か年の音楽専攻科を音楽科の上に設けている。卒業生26名のうち、7名が東京芸術大学音楽学部へ進学し、17名がこの専攻科へ進学している

 高等学校の音楽学科が設立されると、昭和26年6月、市立音楽大学創立の機運が急速に盛り上がる。堀川高校音楽専攻科父兄会を中心として、設立準備委員会ができる。都男も京都市教育委員会として参加している。財政の課題や京都市長の交代といった局面もあったが、なんとか関係者たちの懸命の運動がついに市当局を動かす。設置にあたってはさまざまな条件や課題をクリアせねばならなかったが、関係者の努力により昭和27年5月に全国初となる市立音楽短期大学が開学する

 昭和37年頃には財政問題により音楽短期大学の存続が議論されるようになる。昭和44年4月京都市立芸術大学設置の正式認可が下りる。これは市立美術大学と音楽短期大学の両学を統合し、芸術の総合大学にしたもの。京都音大は存続が危ぶまれたが、カタチを変えて高等教育機関として存続することができた

 

 

 昭和31年5月には日本で初めて自治体が運営する京都市交響楽団が創立される。ここにも都男らが関わっている。初代常任指揮者カール・チェリウスと後任の第2代常任指揮者ハンス・ヨアヒム・カウフマンは京都音大で教授も務め、都男と同僚であった

 

 昭和28年9月には「京都子供の音楽教室」を開講する。都男が初代室長を務める。都男は持論として、音楽の演奏技術を磨くだけではなく、音を聴き分けたり、ハーモニーをはじめ音楽理論を身に付けることなど、演奏技術を裏付ける付帯能力の必要性を説いていた。大学をつくるより、子どもの教育を充実させたいと考えていた。また、そうすることにより、大学で一層充実すると考えた。こうして、京都の音楽教育は幼児から大学まで一貫性を備え、発展の基礎を固めた

 また、おもしろい試みも行われていた。音楽教室と桐朋学園とのコラボである。昭和29年9月に合同の京都演奏会が開催されると、昭和30年9月には桐朋学園オーケストラ演奏会が弥栄会館で開かれている。このときのメンバーに小澤征爾、鈴木秀太郎、平井 丈一朗、堀伝らがいる。音楽早期教育の実験結果を関西楽壇に問うものとして注目され、卓越した若い世代の演奏に感動的な反響を呼んだ。カール・チェリウス夫妻も来会し、絶賛の言葉を送っている

 昭和32年4月、京都音大内に教育研究部を新しくつくり、音楽教室はその実験教室として経営されることになる。当初の都男の構想がここに実現する。教室は現在も続いている(2024年現在)

 

 

 以上、戦後から日本が復興していく中で、音楽教育という分野を京都から再構築したという点において中原都男の功績は多大なものであることがわかる

■作曲など

 都男は行政・学校関係、宗教関係などの作曲を数多く手がけている。すべては把握しきれないが、その一部をここでは紹介したい

 京都市立立誠小学校、京都市立鳳徳小学校、京都市立聚楽小学校、京都市立西院中学校などの校歌、報恩講(お西)の歌、『賀茂別雷神社式年遷宮 奉祝歌』、城陽市歌などがある

賀茂別雷神社式年遷宮 奉祝歌
賀茂別雷神社式年遷宮 奉祝歌
京都楽壇 戦後50年の点描 7(京都新聞1995年5月25日)
京都楽壇 戦後50年の点描 7(京都新聞1995年5月25日)

城陽市歌
城陽市歌
修道小学校校歌(東山区80周年記念誌)
修道小学校校歌(東山区80周年記念誌)
弥栄中学校校歌(東山区80周年記念誌)
弥栄中学校校歌(東山区80周年記念誌)


著書

中原都男の著書
中原都男の著書

■『音楽史序説』北大路書房、1956年

■『音楽の鑑賞と音楽史』音楽教育研究会編、北大路書房、1969年

■『京都音楽史』音楽之友社、1970年

 


都男の長男・中原昭哉について

 都男の長男・中原昭哉もまた都男と同じ音楽家になっている。京都市立音楽短期大学(現在の京都市立芸大音楽学部)作曲科を卒業後、中学校や高校の音楽科教諭を務め、京都府教育委員会音楽科指導主事、京都女子大助教授を経て、同大教授に就任している。定年退職後は、自宅で音楽教室を開きながら評論活動を行なっていた。 音楽クリティッククラブ、ミュージック・ペンクラブ・ジャパン会員。京都市芸術文化協会の副理事長や相談役も務めていた(2015年に86歳で死去)


その他

中原都男先生古稀ならびに京都音楽史出版祝賀会
中原都男先生古稀ならびに京都音楽史出版祝賀会
『無心』(昭和45年4月25日日記より妻・映子写筆)
『無心』(昭和45年4月25日日記より妻・映子写筆)
無心(作詞・作曲)
無心(作詞・作曲)

 『無心』はおそらく都男が最後に残した曲である。死が近づく自分の心境を病床で曲にしたのであろう。神主の子として生まれ、神事によく親しんだが、養育した羽富の伯母は熱心な仏教信者であり、その影響もよく受けている。そのことがこの『無心』からよくわかる。直感的な「無」の音楽に至る境地とはどのようなものであったろうか。「無を一切の可能性を胎蔵する無と把握すれば、琴の一音のすさびをきいて天地のひらけるを直観するのだ」

 『都男追憶』の都男の遺稿に『京都音楽史』の出版に言及しているくだりがある。「生死の問題は、人間にとって極限の問題であり、人生いかに生きるべきやという永遠の課題の解決につながる大事である。経済といい文化といい結局は、人生の生き方なのである。私は、人間の遠隔的究極目的である神性へ参入、霊性への融合へと、人間をつれてゆく道として神性を内部生命力とする高次元に属する音楽芸術の徳力の認識とそれに基く教育力の展開に俟つ。期待することになる。戦後の音楽教育が、かようなヒューマニズムを母体として樹立され、その実験が奇しくも京都で行われたことを、広く世に知ってほしかったのである」。音楽が単なる教育科目ではなく、よりよく生きるためのものであることを悟っているのである

 『無心』には「日本人は西洋音楽では救われない。早く直観的な「無」の音楽を新しく創り出さねばならない。それには子供の時からいのちの表現と云うことを元にする指導法を編み出さねばならない これが私の新しい使命となってくるらしい」とある。死期を悟る病床においても、なお音楽の道を追求しようという姿勢である。もはや感服しかない

 

 その後、京都堀川音楽高校や京都市立芸術大学など京都の音楽界からは、佐渡裕氏、葉加瀬太郎氏、阪哲朗氏などをはじめ世界で活躍する音楽家が誕生している。いずれも魂を揺さぶる、よりよく生きる音楽である。ここには明治以降の近代化や戦後復興からの京都の音楽教育を再構築した都男たちの想いや教育が受け継がれているのではないかと思えてならないのである