京都の東山は霊山。霊明神社の霊山墓地に志士が祀られるようになったのは、久坂玄瑞によるところが大きい(久坂の他には白川家門人をはじめ国学の関わり持った人たちが関係していたのではないかと思われる)。久坂玄瑞はその尊王への思いとともに国学を学び、神道への信仰を篤くした。特に京都では霊明神社を頼りにし、霊明神社3世神主・村上都平と深く親交し、久坂家先祖の祭祀も霊明神社に依頼て行うほどであった。神ながらの道を徹底し、神葬祭を行う唯一無二の霊明神社への崇敬により、久坂玄瑞は志半ばに命を散らした仲間の神葬を霊明神社で行うように取り図ったのである。長州藩より始まる志士の奥都城(墓地)が霊山にあるのはそのためである
その久坂玄瑞が師と仰いだのが吉田松陰である。吉田松陰が霊明神社に来たことがあるかどうか現在のところわからないが、吉田松陰門下の志士たちが霊明神社に出入りしており、その多くが霊明神社で祀られている。また当時、吉田松陰の奥都城を霊山に建立する話もあったようであるが、残念ながらそれは叶わなかった。
ここでは、吉田松陰の生涯を振り返ることで吉田松陰を顕彰するとともに、霊明神社との関わりについて触れてみたい
・文政13年8月4日(1830年9月20日)、長門国萩松本村の萩藩士 杉百合之助の次男として生まれる
幼名は寅之助、大次郎を名乗り、通称は寅次郎。諱は矩方。字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士
・天保5年、叔父で山鹿流兵学師範であった吉田大助賢良の養子となり、兵学を学ぶ
・幼くして明倫館で兵学を教え、11歳にして藩主・毛利慶親の前で「武教全書」戦法篇を講義し、高い評価を得た
・また、叔父の玉木文之進が開いた松下村塾でも学び、厳しい教育を受ける
・さらに山田亦介より長沼流兵学の免許を受け、林真人より山鹿流兵学の免許を受ける
・嘉永3年、九州の平戸に遊学し、葉山左内(佐藤一斉門下)のもとで学ぶ。肥後藩のでは宮部鼎蔵と知り合い、意気投合する
・嘉永4年には、藩主の参勤交代に従い江戸へ。安積艮斎、山鹿素水、佐久間象山らから学ぶ
・さらに東北遊行を宮部鼎蔵と計画するも、松陰は宮部との約束の日に間に合わないため、藩の許可を待たず出発。脱藩となる
・諸国を巡り、水戸では会沢正志斎を訪ね、会津では日新館の見学をしている
・その後、藩より帰国命令が下り、萩に帰る。士籍剥奪・世禄没収の処分を受け、実家の杉家の預りの身となる
・嘉永6年、再び諸国遊行へ。近畿も巡り、江戸へ。そこで黒船来航を聞き、浦賀で目撃。藩主に「将及私言」を提出
・外国から学ぶ必要性を感じ、海外留学を志す。ロシア軍艦に乗船するべく、江戸を出発し、長崎へ。しかし、ロシア艦隊はすでに長崎を出港しており、目的は果たせなかった
・嘉永7年に再び密航を断行。金子重輔とともに下田に停泊中のペリー艦隊へ乗船するも渡航を拒否され断念。海外渡航の罪を自ら認め、下田奉行所へ。伝馬町牢屋敷に投獄され、その後、国許蟄居となり野山獄に幽閉。このとき、後に松下村塾の教授となる富永有隣とも出会い、同囚には論語などを講じたりした
・安政2年、野山獄から出獄を許され、杉家にて謹慎の身となる
・安政3年、叔父・久保五郎左衛門が受け継いだ松下村塾のために「松下村塾記」を記す。この頃、松下村塾の三無生といわれた増野徳民、吉田稔麿、松浦松洞が塾生となる。ちなみに、霊明神社で最初に神葬を行った志士がこの松浦松洞である。松浦は藩の政策に従わず、最期は粟田山で自死を撰ぶ。このことを悲しんだ久坂玄瑞が遺体を引き取り、密かに霊明神社で神葬を行った。このため、長州藩の公式な神葬とはならなかったのである(藩が認めた最初の神葬が船越清蔵)
・安政4年、叔父の松下村塾を継いで、納屋を改修し、塾舎として松陰主宰の松下村塾を開く。松陰のもとで学んだ人たちが霊明神社と深く関係していく(後述)。松陰は妹・文を久坂玄瑞に嫁がせる
・安政5年、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことに激怒し、間部要撃策を立てる。藩には認められず、謹慎を命じられ、松下村塾も閉鎖される
・さらに伏見要駕策を立てるも、多くの門下生や友人らには反対される。失意とともに藩の対応に不満を抱き、草莽崛起を唱える。倒幕の考えは危険視され、再び野山獄に入獄される
・安政6年、梅田雲浜が幕府に捕縛されると、それに連座して松陰に嫌疑がかかり、江戸に送致され伝馬町牢屋敷に再び投獄される
・評定所では、自ら進んで間部要撃策のことを話したことで、死罪となり斬刑される

安政の大獄が進行する中、萩の野山獄に入れられていた吉田松陰も、安政6年(1859)5月に江戸へ護送されることとなった。そこで吉田松陰の門下生達は、同じ門下の画家松浦松洞に師の肖像を描かせ、松陰の自賛をもとめた。二十一回猛士は吉田松陰の号、日付の5月21(念一)日は、江戸護送の5日前である。「三分出廬兮諸葛己矣夫 一身入洛兮賈彪安在哉 / 心師貫高兮而無素立名 志仰魯連兮遂乏釋難才 / 讀書無功兮撲學三十年 滅賊失計兮猛氣廿一回 / 人譏狂頑兮郷黨衆不容 身許君國兮死生吾久齊 / 至誠不動兮自古未之有 古人難及兮聖賢敢追陪 / 思父年少能知敬我、我是以深愛思父、思父無爲而死、是思父爲辜我、我害義而生是我爲負思父、思父室懸我像、兩心相照、一幅感深、辜負二字、天地豈容之哉。歳之五月念一二十一回猛士書」(出典:平成6年度京都大学附属図書館公開展示会図録『吉田松陰とその同志』)

披繙冊子 嘉言如林 躍躍迫人 顧人不讀 即讀不行 苟讀而行之 則雖千萬世不可得盡 噫復何言 雖然有所知矣 不能不言 人之至情也 古人言諸古 今我言諸今 亦詎傷焉 作士規七則
一 凡生為人 宜知人所以異於禽獣 蓋人有五倫 而君臣父子為最大 故人之 所以為人忠孝為本
一 凡生皇國 宜知吾所以尊於宇内 蓋皇朝萬葉一統 邦國士大夫世襲禄位 人君養民 以續祖業 臣民忠君 以継父志 君臣一體 忠孝一致 唯吾國為然
一 士道莫大於義 義因勇行 勇因義長
一 士行以質實不欺為要 以巧詐文過為耻 光明正大 皆由是出
一 人不通古今 不師聖賢 則鄙夫耳 讀書尚友 君子之事
一 成徳達材 師恩友益居多焉 故君子慎交遊
一 死而後已四字 言簡而義廣 堅忍果決 確乎不可抜者 舎是無術也
右士規七則 約為三端 曰立志以為萬事之源 選交以輔仁義之行 讀書以稽聖賢之訓 士苟有得於此 亦可以為成人矣
録吉田松陰先生士規七則 波多江授典
<読み下し文>
冊子を披繙(ひはん)すれば、嘉言(かげん)林の如く、躍躍(やくやく)として人に迫る。顧(おも)ふに人読まず。即(も)し読むとも行はず。苟(まこと)に読みて之を行はば、則ち千万世(せんばんせ)と雖も得て尽す可からず。噫(ああ)復た何をか言はむ。然りと雖も知る所有り、言はざること能はざるは人の至情なり。古人は諸(こ)れを古(いにしへ)に言ひ、今、我諸(こ)れを今に言ふ。亦た詎(なん)ぞ傷(やぶ)らむ。士規七則を作る
一 凡そ生まれて人たれば、宜しく人の禽獣(きんじゅう)に異なる所以を知るべし。蓋(けだ)し人に五倫有り、而(しこう)して君臣父子を最も大(おおい)なりと為す。故に人の人たる所以は忠孝を本(もと)と為す
一 凡そ皇国に生まれては、宜しく吾が宇内(うない)に尊き所以を知るべし。蓋(けだ)し皇朝(こうちょう)は万葉(ばんよう)一統にして、邦国(ほうこく)の士夫(しふ)世(よ)禄位を襲(つ)ぐ。人君民を養ひて祖業を続(つ)ぎたまひ、臣民君(きみ)に忠(ちゅう)して父志(ふし)を継ぐ。君臣一体忠孝一致なるは、唯(ただ)吾が国を然りと為す
一 士の道は義より大(おおい)なるは莫(な)し。義は勇に因りて行はれ、勇は義に因りて長ず
一 士の行(おこない)は質実にして欺かざるを以て要と為し、巧詐にして過(あやまち)を文(かざ)るを以てる恥と為す。光明正大皆な是れ由(よ)り出づ
一 人古今に通ぜず、聖賢を師とせざれば、則ち鄙夫(ひふ)のみ、書を読みて尚友(しょうゆう)するは君子の事なり
一 徳を成し材を達するには、師恩友益多きに居(を)る。故に君子の交遊を慎む
一 死して後に已(や)むの四字は、言簡(ことかん)にして義該(きか)ぬ、堅忍果決確乎(けんにんかけつかくこ)として抜く可からざる者は、是を舎(お)きて術(じゅつ)無きなり
右士規七則、約して三端(さんたん)と為す。曰く志を立てて万事の源(もと)と為し、交(まじわり)を擇(えら)びて仁義の行(おこない)を輔(たす)け、書を読みて以て聖賢の訓(おしえ)を稽(かんが)ふ。士苟(まこと)に此に得ること有らば、亦以て成人と為すべし
<現代訳>
書物を開けば、学ぶべき立派なことが山と載っていて、私達の心に訴えかけてくる。考えるに人は折角のその書を読まない。もし読んでもその得た知識を行動に表さない。事実、書を読み実践したならば、幾千万年にわたっても実践しつくす事はできないのである。ああ、ことさら言うことではなく、ただ実践すればよいのである。しかし知っていたら、そのことを言うのが人の情というものである。昔の人は昔なりに言い、私も私なりに言う。何を慮ることもない。よってここに士規七則をつくる
一、人として生まれてきた以上は、人が動物と異なる理由を知っておかなければならない。思うに、人には人として踏むべき五つの道がある。そしてその中でも君臣の道と父子の道が、もっとも重要にして大切な道である。故に、人が人であるその根本は忠孝の道にある
一、天皇のおわす国に生まれた以上、吾が国が世界に伍して尊い理由を知っておかねばならぬ。天皇は比類なき万世一系で、我が国民はいつの時代であっても代々、天皇から官位と家禄をいただいてきた。天皇は民に信義を示されて先祖の志を継いでこられた。君臣とも一体、忠孝一致、これは我が国においてのみだ
一、士道には義ほど重要で大切なものはない。義、すなわち正しいことは、勇気を出すことによって、実行され、勇気は正しいことを踏み行うことにより益々秀でてくる
一、士の行いは、質実で人を欺くことのないことを眼目とし、巧みに言いつくろっては過ちを取り繕うことを、恥と考える。公明正大な生き方は総てここから発現する
一、歴史に通暁せず、聖人賢者を師と仰がなければ、人はたちまちつまらぬ凡人となってしまう。書を読み友を尚(とうと)ぶことは、立派な人の第一に心がけである
一、人徳を磨き、もてる才能を発揮するには、恩師と益友の裨益によるところが多い。故に君子は交遊を慎重にする。
一、死而後已(ししてのちやむ)」という四文字は、言葉としては簡単だが、「死ぬまで出続け、いのちある限りやめない」という意味は非常に深い。このことを無視しては、堅忍果決にして確固不抜という生き方は決して出来ない
右の士規七則を要約して、三項目となす。即ち、「志を立て、総て物事の出発点とすること」、「交わるべき友を選んで、仁義の行いに裨益すること」、「書を読んで成人賢者の教えを考えて、これをまた吾が身に行うこと」である
<著作等>
『講孟余話』『幽囚録』『留魂録』『回顧録』『士規七則』や各旅行記などあげればキリがない。門下生や友人など交流のあった人たちへ送った手紙もたくさんある。筆まめな人であったことがよくわかる
松陰が継承し主宰した松下村塾は、自宅で謹慎の身であったために、家族や親族に対して講義したことから始まる。やがて近隣の子弟たちも参加するようになり、入門者が徐々に増えていく
玉木や久保が主宰していたときとは性格が異なり、尊皇攘夷思想を深めて、国学、儒学、兵学、史学など広く学ぶようになる。また、松陰は身分にこだわらず学ぶ意欲のある者であれば誰でも受け入れ、塾生は自分と同等に扱い、喧々諤々の議論をすることを旨とした
約80人の門下生がいたとされ、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖など。志士として幕末に行動を起こし、命を散らした者たちも多いが、明治維新の日本を支えた志ある優れた人材を輩出した
・松陰は刑死後、国事犯を埋葬していた小塚原回向院で葬られた
・文久2年8月2日の安政の大獄以降亡くなった者たちの罪を赦免し、慰霊を行うようにという朝廷の勅旨もあり(霊明神社ではこれにより12月に全国規模の殉難志士の招魂祭が初めて斎行される)、久坂玄瑞や高杉晋作や伊藤博文など門下生たちが松陰の改葬について相談をはじめる
・このとき、霊山の霊明神社への神葬が検討されている。たとえば、久坂玄瑞の備忘録『筆廻末仁滿爾』の文久2年10月上浣日には「船翁墓碑之事森山等墓碑之事有志諸士招魂碑先師改葬之事長雅楽始末急務之事公卿(に)五大洲の形勢を知らする事農兵之事(等々)」とあり、久坂が船越清蔵の墓碑のこと(霊明神社による公式な志士の最初の神葬)に並列して、松陰の改葬のことを気にかけていたことがわかる
・さらに、文久2年11月11日に杉山松介から山縣有朋に宛てられた書簡に「松陰先生建墓一件、尚遺続の事も有之由。建墓は吉田玄蕃船翁建墓之事に付き、先生のも同様周旋仕候由」とあり、船越清蔵と同様に霊山に神葬できないか検討していたことがわかる
・それでも藩の上役たちが及び腰だったせいもあってか実現することはなく、文久3年正月に世田谷若林の長州藩大夫山(現在の松陰神社)に改葬されることになった(この場所は、長州藩主毛利大膳太夫綱広が旗本の所領なる地を買って火避地とし、林のある際に別邸を建てたことから大夫山、または長州山といわれている)
・このとき、一緒に頼三樹三郎や小林民部(いずれも霊明神社で祀られている)も門下生の手により改葬されている
※その後も霊山への改葬の検討は続いたようであるが、禁門の変により立ち消えとなったようである
霊明神社では久坂玄瑞や吉田稔麿を始め、松陰の門下生を数多く神葬し、その祭祀が現在も変わらず続いている
霊明神社の社中(檀家)で松陰門下の品川弥二郎が松陰の意志を継ぎ創設した尊攘堂では、霊明神社神主が松陰らの慰霊祭などの斎主を務めていたとがあります
尊攘堂は、当時子爵であった品川弥二郎が吉田松陰の遺志を継いで、明治20年(1887)に高倉通錦小路に建てられたものである。一つの物語がある。これは、松陰が京都で尊攘堂を建て、勤王の志士を祀り、人々を奮い立たせることを志したものに由来する。囚われの身となった松陰が自身では成し遂げることが叶わないことを悟り、安政6年10月20日、伝馬町牢屋敷の獄中より入江九一宛てに後事を託したのである。しかし、残念ながら、この書簡は入江には届かなかった。後年、品川が偶然水戸にてこの書簡を得て、松陰の遺志を知る。入江もまた禁門の変で亡くなっており、この師の遺志を成し遂げるのは自分しかないと、尊攘堂の建立に想いを熱くしたのは想像に難くないところである
品川弥二郎は、尊攘堂に勤王の志士の神霊を祀り、同時に志士の殉難事績に関する史料や遺墨遺品を収集した。毎年荘厳なる祭典を営み、一般の人々も参拝し、収蔵品を縦覧できるようにした
品川弥二郎の没後、明治34(1901)年に尊攘堂の所蔵品を京都帝国大学に寄贈。明治36年には寄贈品を収蔵するため京都帝国大学構内に二代目尊攘堂が建築される。奇しくも松陰が構想した大学に尊攘堂ができたのである(入江宛の書簡には「京師に大学校を興し、上、天子親王公卿より下武家士民まで入寮寄宿等も出来候様致し、恐れながら天朝の御学風を天下の人々に知らせ、天下の奇材英能を天朝の学校に貢し候様致し候へば、天下の人心一定仕るに相違なし」とある)
ちなみに、尊攘堂は平成10年(1998)に国の登録有形文化財として登録されている
また、紀元2600年祭を記念して、昭和15年10月、尊攘堂に石標が堂前に建立されている。この時の記念品の肉池(朱肉の容器)が霊明神社にある
木箱の表には「尊攘」「肉池」とあり、その裏面には「皇紀二千六百年秋」とあり陶芸家の伊藤陶山の書付がある。伊藤陶山は尊攘堂保存委員のメンバーである。肉池にも「尊攘」と書かれており、その左下には「やじ」とあり、品川弥二郎の文字を使って作られている
※品川弥二郎は折に触れては「尊攘」という言葉をよく使っていたそうである
さて。記録によると尊攘堂での祭祀は昭和20年まで続いたようだが、霊明神社は昭和19年までその祭祀に関わっていたようである。尊攘堂での祭祀の数編の祝詞が霊明神社に残っている

京都遊行のおりには松陰もまた霊明神社に来ていたかもしれないと妄想を膨らませつつ、
以上紹介したように松陰の門下生や交流していた友人らを通して霊明神社とのつながりは深い
松陰は、思想家であり、実践者であり、教育者であり。さまざまな顔をあわせもつ類まれな人物といえる。もし、松陰がいなかったら、日本がたどった歴史はもっと違ったものであったかもしれません。松陰の志を立て至誠を尽すあり様は経営者や教育者をはじめ多くの人たちから尊ばれて、今なお多くの人に影響を与えている
霊明神社では幕末維新殉難志士慰霊祭として、これからも松陰の祭祀が続いていくのである
