天保12年(1841)7月、常陸国行方郡芹沢村(現在、玉造町芹沢)に大宮神社神官・若泉醸の長男として生まれる
文久3年(1863)那珂湊の郷校で同志と会議し、尊王の大義を天下に明らかにすることを藩主に建言した。同年9月、水戸藩の青年の中から選ばれ、江戸、小石川邸(水戸屋敷)の守護を命ぜられ、一橋慶喜守衛となるも10月これを免ぜられる。同月、品川台場、大砲打手を命ぜられ、同藩の山国喜八郎(山国兵部)に随従。同年12月これを免ぜられる
翌、元治元年(1864)1月、余八麿(徳川昭武)に扈従し、京都に入り、本圀寺に帯営する。このときから、他藩の志士と交流していた同郷の盟友・鯉沼伊織(香川敬三)らとも通じ、尊攘活動に励むことになる
同年4月、一橋慶喜守衛を命ぜられ床几隊に入る。後、守衛の任務を解かれ、ふたたび余八麿に付く。同年12月余八麿が清水徳川家を相続すると、禁闕御守衛の任に着く
慶応3年(1867)讒言され、幽囚となる。同年12月獄中にて死去する(享年27歳)
若泉主税の最期については、父・醸が新治懸権令に提出した「主税事績書上」では、慶応3年10月に幽囚となり、12月19日に病死したとしている。若泉家の若泉主税の霊璽の裏書によると、慶応3年12月27日に禁錮せられ、同藩の者が破錮害し、遭害で獄中死したとあるそうだ
また、参考文献の中村氏がまとめた古老の話によると、この同藩のものこそ鯉沼だという。詳細はわからないが、他藩の志士ともめごとがあり、問題視され、入牢禁錮の身となった。若泉が妥協しない限り、死んでもらうより他ないという話にまで及ぶ。盟友である鯉沼は、なんとか若泉を助けたいとの思いで、同志の了解を得て、獄舎を破り、説得を試みる。しかし、若泉は応じなかった。そこで、他藩の手に渡すことは何とも忍びないと、鯉沼はその命を自分が貰うことにした。その首は、初め清水寺の一隅に葬り、後年これを霊山墓地に移し、石碑を建て、これを弔ったという
<参考文献>
玉造史叢 第34集 4 幕末期の勤皇殉難志士「若泉主税」について(中村 政雄、玉造町郷土文化研究会編 1993年4月出版)
若泉主税の霊山墓地への改葬を霊明神社で行っています
その記録が霊明神社所蔵の霊名記(神霊記)に記されています。当時、一連の戊辰戦争で命を落とす人が多く、霊明神社ではそういう方々の神葬や慰霊祭を行っていましたが、戊辰戦争が終結した後も、政府の関係者で亡くなった方のお祀りごとを務めていました。そういった方々の並びの中にこの若泉主税の名を見つけることできます
改葬されたのは、明治二己年11月11日。「兵部所ヨリ送ル」とあります。この頃、兵部省(兵部所のこと?)の高い地位にいた香川敬三が、時代も変わったことから、志しを同じくした志士が眠る霊山に、若泉主税も同じように眠らせてやりたいと考え、兵部省のパイプを通じて、霊明神社への改葬を行ったということになるでしょうか
墓碑の裏には簡単な経歴や改葬について書かれていると思われますが、判読が難しい状況です。わかる方がいらっしゃれば、ぜひご教授ください
「君●●常陸水戸藩●扈従●士●●●●京師遭讒幽囚丁
卯之十二月十九日為疾者●●●●二十八歳君為人●
●常●憂●之念而不●●今●之●●而之實可●也 」
<重要なキーパーソン・香川敬三(鯉沼伊織)>
ここでは多くを語りませんが、香川敬三はこの改葬よりずっと以前から霊明神社と関わりのある人物のようです。正式な記録は見つけられていないところですが、霊明神社では水戸藩の志士も多く祀っており、その神葬や慰霊祭には参列していたのではないか。また、中岡慎太郎の陸援隊にも加わり副隊長格も務めています。坂本龍馬・中岡慎太郎らが暗殺され、霊明神社に葬送されるときには、その葬列にいた可能性も高いです。戊辰戦争からの関わりではないことが想像されます
※霊明神社との関わりがわかるような資料があれば、是非ご教授ください