幕末の国学者、歌人で勤王志士。通称・六郎。一時、並木春蔵の変名を使用。法名は大雲坊周永。号は破草鞋道人、八丘、斑鳩隠士、蒿斎、岡陵など。伴林の名は、生家近くの伴林氏神社にちなむ
河内国志紀郡林村(藤井寺市)浄土真宗尊光寺賢静の次男として生まれる。1828年に上京し、西本願寺学寮に入り、その後、薬師寺、大和郡山の光慶寺等で仏道修行、各地で仏道・朱子学・国学・和歌を学ぶ(父は出生前に他界、母も六歳の時に亡くなった)。朱子学は浜松の川上東山、国学は伊丹の中村良臣、紀州藩の加納諸平、江戸の伴信友、和歌は因幡国の神官・飯田秀雄などから学んでいる
1845年、八尾の教恩寺の住職となり、多くの門人に国学・歌道の教育を行うが、1861年に教恩寺の壁に七言絶句「本是神州清潔民 謬為仏奴説同塵 如今棄仏仏休咎 本是神州清潔民」を書き残して出奔。還俗して伴林六郎光平と名乗り、大和国法隆寺村東福寺の駒塚の茅屋に住み、京都などで志士と交わり、開国後は攘夷論を唱えるなど勤王志士として活動した
1861年、和中宮寺の家士となり、皇陵の復興に情熱を燃やして山陵調査を行い、朝廷から感謝状を受けている
並木春蔵の名で志士活動を展開し、1863年、「天誅組の変」が起こると、五條に駆けつけ、天誅組の軍参謀兼記録方を勤め、十津川郷その他に檄文を送って参加者を募っている。諸藩兵と戦うが白銀峰や和田峰などで敗れ、法隆寺から磐船街道を大阪へ逃亡中に捕えられる。翌年2月、京都六角獄で同志たちと共に斬首処刑された
京都六角の獄舎に移されたときは「生野の変」で囚われた平野国臣(霊明神社で祀られている)と牢が隣同士で和歌の贈答をしている。また、獄中で義挙の経緯を回想した『南山踏雲録』を書いている
1871年6月、天誅組墓所が現在の霊明神社西墓地の上に建立された(現在、マンションが建っているあたり)
1891年9月には靖国神社に合祀され、12月に従四位追贈されている。五十年忌には、河内の同志が玉祖神社近くに伴林光平の墓を建立している
辞世の句
「梶を無み 乗りて遁れん世ならねば 岩船山も 甲斐なかりけり」
<参考文献>
朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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伴林光平個人との直接的なつながりは確認されていないが、霊明神社で行われた神道葬祭、慰霊祭に参列したり、墓参に訪れていたかもしれない
霊明神社は、天誅組総裁の吉村虎太郎・松本奎堂・藤本鉄石らと交流を持っていました。天誅組に参加し、命を落とした志士たちの霊祭も霊明神社で行われ、霊明神社に墓地が建立されました。霊明神社で祀られた志士の名が記されている『霊名記』(霊明神社所蔵)には、伴林光平の名前も記されている(下図の一番左)
霊明神社の西墓地には、明治2年9月には、吉村虎太郎、坂本龍馬、中岡慎太郎など27柱を祭神とする土州高知藩招魂社(当時は霊明神社の摂社)が建立されており、土佐藩招魂祭も当社の神主によって斎行されました。明治4年6月、天誅組の大和義挙に殉じた志士の首級が改葬された天誅組墓所もこの場所にありました。ここに光平の墓もあり、招魂碑と刻まれています(実葬はされていない)
しかし、明治11年10月霊山奥都城と上記の墓地など約1800坪が上知(国有地)となり、その後、昭和40年代に土佐招魂社や天誅組墓所一帯は霊山護国神社の境内に移設されました
「伴林光平と霊明神社の関わり」で紹介したように伴林光平の埋葬をした記録はありませんが、『霊名記』に名前が記されているとおり、その神霊を霊明神社でお祀りしています。現在は『幕末維新殉難志士みたま祭』として9月上旬に慰霊祭を行っています。一般の方も参拝できるお祭りですので、志士に想いを馳せてくださる皆さまは是非ご参列ください
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