幕末の志士の葬送について

 文久2(1862)年11月18日に勤王家の吉田玄蕃の志により、長州清末藩国学者船越清蔵守愚の墓を建立し、長州藩士たちの参列のもとに神道葬を斎行。これが機縁になり長州藩をはじめとする殉難志士の神道葬祭などの祭祀を執り行うようになりました。同年12月には平田篤胤門下で神祇伯 白川家の古川躬行や津和野藩の福羽美静らの発起により、安政の大獄以降の殉難志士の「報國忠士の霊魂祭」が斎行されるところになり、招魂社また靖国神社創建の起源をなすものとなりました。

 

 志士たちは「死して護国の神となる」「霊山の村上にて皇国の手振りにて葬らるることを如何に楽しとせし事ぞ」と霊明神社に葬られ、神霊として祀られることを無上の名誉と思ったそうです。

 後に各藩の招魂社が霊明神社の敷地内に建立されていきますが、当初は霊明神社の末社であり、後には霊明神社の兼帯社という扱いでした。明治政府がこの地に我が国最初の官祭招魂社の場所を定めたのも、霊明神社によって志士の神霊を鎮め、慰霊している聖地であったからに他なりません。

 

 明治8(1875)年には、霊明神社や兼帯社で祀る殉難志士の神霊が「東京招魂社(後の靖国神社)」に合祀。明治9(1876)年には養正社が結成され、社域の拡張が始まる。明治10(1877)年には、霊明神社の墓地のほとんどを公収(上知)することになります。これらにより「霊山官祭招魂社」は霊明神社から独立し、殉難志士の神葬墓地のほとんどが官修墳墓となります。とはいえ、しばらくは、霊明神社の三世神主・都平、四世神主歳太郎(都順)が京都招魂社社務(祠掌)に任ぜられ、官祭慰霊祭の斎主を勤めていました。

 

 その後、霊山官祭招魂社は、昭和14(1939)年に霊山・東福寺・泉涌寺・大雲院の各招魂社を合祀して、現在の京都霊山護国神社となります。